Flaneur, Rhum & Pop Culture
『ロレンス』のパズルを解読する
[ZIPANGU NEWS vol.100]より
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 1990年6月25日、『ロレンス』という芝居が楽日を終えた。劇場は70年代前半から小劇場演劇をやり続けていた松田優作が、最後の86年『マオモ』、87年『MAZDA/マズタ』、88年『モーゼル』を上演して、劇場としてこだわった隅田川畔の森下町ベニサンピットだった。<松田優作追悼公演>と銘打ったこの芝居は、故人によって見いだされた小島康志の脚本、森美智夫の演出で、剛州や寺島進、谷川みゆき等が出演していた。松田優作の映画人としての資料は厖大に残されているが、こと演劇の資料たるや何も残っていない。只共演者だった人たちの手元に僅かな紙と限定された客の記憶の中だけである。それで今更ながら驚くことは、この追悼版の『ロレンス』の原作が松田優作だったということだ。
 89年3月14日に映画『ブラックレイン』の撮影を終えて帰国した松田優作は、一日たりとものんべんだらりと過ごすことを拒否して精神を集中させた。編集作業の中で突如部分リテイクの指示があって、そのためだけに現地に呼び戻されたり、日本では考えられないことが撮影中はおろか、撮影後にもあったりして愚痴をこぼしながら飛行機で飛んで行った。6月某日いつものように店にやって来て、大事な秘密を打ち明けるように、四輪の自動車免許証を胸のポケットから取り出して見せた。「カヤック乗りの映画を考えているんだ。これでカヤックを積んで秋川上流に行ける」と嬉々として言った。買った車はトヨタの荷台が裸のトラックだった。<家族ゲーム>ではなくて<現実の家族>に向き合うための車でもあったに違いないが、「近いうちに京都の保津川下りに行かないか」と俺を誘った。船頭の話の映画も考えていたからだ。映画へ映画へと心身を収斂させながら、<映画のための身体は舞台で鍛える>という基本鉄則を違えることなく、進行していた病魔の痛みと<戦い>ながら、次回用の舞台のための原作を書き留めていたのだった。
 89年2月13日、ユニバーサル撮影所でその日の撮影を終えた後、松田優作に誘われるまま、『ブラックレイン』組スタッフに混ざってイタリアンの晩食をワイワイと終えて、ホテルに帰ると世界が変わった。ロスアンゼルスの高台のサンセット・ブールバールにあるモンドリアン・ホテルで、サウナから出た俺は部屋に呼ばれた。ひとしきりリドリー・スコット組の撮影の感想を求められた後、彼が言ったのは、デビット・リーン監督の『アラビアのロレンス』完全版のプレビュー上映に招待されたことだった。「(高倉)健さんと俺をエスコートしたマイケル(ダグラス)が、会場で待ち構えていたカメラフラッシュに向かって、今撮影中の『ブラックレイン』の共演者だって紹介するんだ。『ロレンス』の完全版を作るためにピーター・オトゥールやアンソニー・クイーンが、部分撮り直しに駆けつけたっていうんだ。何十年前の映画にだぜ。それに10億近く予算掛けるなんて信じられないよ。ハリウッド式って映画の財産を守るためにみんなが賛同して、みんなに祝福されるんだ」彼がよく口にしていた<映画の父の国>で体験した『ロレンス』完全版は、撮影外のこととは言え激しく心を揺さぶったに違いなかった。
 16年、英国の軍人だったT・E・ローレンスは、オスマン・トルコに占領されていたアラブを<解放>するため、エジプトから派遣された軍事顧問としてゲリラ戦を指揮した。考古学者でもあったローレンスは、遺跡の破壊には相当悩んでいたらしく、結局は英国はイラクとヨルダンを委任統治領にして帝国主義政策をむき出し、疑問を感じたローレンスは顧問を辞職したが、アラブ側からは帝国主義の手先だったとみられたりした。ワディ・ラム(ヨルダン南部)の「偉大な山容を前にして、微小なる自身をかえりみて、恐ろしいような、恥ずかしいような気分」は、次第に自暴自棄的な生活になり、35年オートバイ事故で死んだ。国家に翻弄されながらも砂漠に眩惑されたローレンスに、松田優作が倒錯したのは至極当然だったと思う。ポール・ボールスが、砂漠の蟻地獄にはまったように、松田優作も又、砂漠に取り憑かれた男だったのだ。
 楽日から6日後の7月1日、家族からは愛されたが、愛したほど映画に愛されず、<東京砂漠>で死んだ松田優作の納骨式が行われた。<西方浄土>に近いのか、東京の果て西多摩霊園の墓碑には<無>の一字だけが刻まれていた。