Flaneur, Rhum & Pop Culture
『ボレロ』を巡る輪廻転生
[ZIPANGU NEWS vol.94]より
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 地震から津波による災害、そして原発の<記憶>すべき年も終りを迎えようとしている。今秋、埼玉の東松山市にある丸木美術館で、丸木位里・丸木俊夫妻の連作絵画の『原爆の図』が改めて展示された。統制厳しい1950年代初頭に「いち早く被曝の記憶を伝える」ことで描いた生々しいヒロシマの光景の作品群だが、展示は勿論福島原発を意識してのことだろう。吐き気を憶えるのは、戦後66年を経た人間の愚かな営みが、フクシマとヒロシマを繋げたということだ。そしてそこに正面を向いて立ち尽くさなければならないことだ。原爆被爆者で70歳から絵を描き出した母親の丸木スマは「ピカは地震や津波と違う。人が落とさにゃ落ちてこん」と言っていたという。それに付けても哀れなのは、ここ数年、JR渋谷駅から井の頭線に通じる壁に飾られた巨大な岡本太郎の渾身の原爆絵『明日への神話』が、膨大な通行人の洪水に隠れて無視されているのが急に浮かんできた。行政や役人の浅はかな考え方が透けて見えて、原発も同じ構造で成り立ってきたのが分かる。
 10月末の新聞に、チャリティ・ガラ・コンサートで来日する「世界的バレエダンサー、シルビー・ギエムが、東日本大震災で大きな被害を受けた福島県いわき市の『いわき芸術文化交流館アリオス』で特別公演を開く」とあった。公演日の11月1日は同館が全面復旧する日だとか。ギエムは「過去の思い出とともにあり、心を奮い立たせて強いエネルギーを与えてくれる作品『ボレロ』等」を用意したとあった。バレエは苦手だが現役のダンサーとして1番好きかもしれないシルビー・ギエムに胸がざわめいた。3・11以後、来日が決まっていたがキャンセルが続出した来日公演の逆を行く行動だった。9月に俺も行ったいわき市に向かうのかと思うと何かいい気にさせた。そしてシルビー・ギエムはそう言う人なんだと得心した。
 1990年3月、前号で触れた内藤忠行写真展の初日前後、神懸かり的なダンサーだった故ジョルジュ・ドンの来日公演を観に行った。チャイコフスキー記念東京バレエ団創立25周年記念公演と銘打った「モーリス・ベジャールの夕べ」は、ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』(71)で延々と流れたマーラーのあの官能の『交響曲第5番第4楽章』の「アダージェット」や、モーリス・ベジャールが初めて振付けをしたという50年のスエーデン映画『火の鳥』をアレンジした、ストラビンスキーの『火の鳥』と続いて、ジョルジュ・ドンの裸体がエロチックに光っていた。「人々を目覚めさせるにはショックがいる。ショックを受ければ意識が目覚め成長する」と発言した二十世紀バレエ団を率いる眼光鋭い振付け師ベジャールのステージは、数年前に『仮名手本忠臣蔵』を下敷きにした『ザ・カブキ』は観ていた。その斬新なステージに魅せられてはいたが、何と言っても圧倒的なのはラベルの『ボレロ』だった。
 映画『愛と哀しみのボレロ』が81年に封切られた。クロード・ルルーシュが監督した戦中戦後に亘る歴史的大メロドラマだが、映画のオープニングがラストシーンの『ボレロ』の演奏とドンの踊りのシーンになっていて、3時間後、観客はオープニングで観たシーンを再度17分間味わうことになる。俺は感動の涙でぐしょぐしょになり終わっても中々席を立てなかった。翌日妻を誘って行くと又おなじ状態に終わった。この記憶は決定的だった。
 さて上野の東京文化会館の最後の演目は『ボレロ』だった。ややすると俺が誘った隣席の原田美枝子と松田美由紀が落ち着きが無くなって、どうもドンにやられ始めたらしかった。長い豊饒と悦楽の時間が終わるや、俺も妻も勿論二人も素早くたって、否客席全員が立って“ブラボー”の大声援が館内に百回くらい響き渡った。長いカーテンコールが終わるや、「ちょっと行って来る!」と言うや否や、女たちは楽屋目指して人を掻き分け消えて行った。勿論もはや女優の体などかなぐり捨てていたのだった。92年11月30日、ジョルジュ・ドン死去。最後の『ボレロ』だったのかもしれない。
 偉大な足跡を継いだシルビ・ギエムは、90年に初めて東京で『ボレロ』を踊り、05年同じ東京文化会館で103回目を踊り終わった後、「もう踊らない」と封印したはずなのに、<外国>の東北の震災と福島原発が何故、フランスの踊り子に解く決意をさせたのか、そこを知りたい。