Flaneur, Rhum & Pop Culture
桜は憂鬱なる天才だった。
[ZIPANGU NEWS vol.93]より
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 当連載は<酒場文化発信基地>の通信という体裁を取っているが、その<基地>である「booze & jazz レディ・ジェーン」の店内の壁には、額装した世界のジャズ・ミュージシャンの写真が飾ってある。マイルス・デイビス、ビル・エバンス、キース・ジャレット、セシル・テイラー等、かつては十数枚、今は都合で8枚に減っているが、それらはすべて写真家・内藤忠行が撮った写真で、長い時代ジャズ・バーとしての店内の雰囲気を醸すのに大いに役立っているようだ。
 1979年にボブ・マーレイ&ザ・ウェイラーズが唯一来日した折に、それ迄ジャズメンばかり撮っていた菅原光博という写真家は、その時のステージを撮って写真集にして出版したが、今でもボブ・マーレイを撮った写真家として知られているようだ。ついでに言うと、そのコンサートに出掛けた俺は、ボブ・マーレイが登場するや身体の自由を失って金縛り状態になった。そして身体から汗が、目から涙が滂沱の如く溢れだして止まらなくなった。レゲエにもそれほど心酔したつもりも無かったが、ラスタファリの聖体が降臨して、体内の毒素を放出される宗教上の通過儀式かと思わせる感覚だった。生涯ただ一度の奇異な音楽体験だった。今年1月に亡くなったドラマーの古澤良治郎と2年程前にふいにその話をした時、彼も「俺もそうだったよ」と言ったぐらい、その話はついでに言うことではないのだがここでは置く。写真家の菅原光博は当時同じ下北沢に住んでいて、「レディ・ジェーン」には良く顔を出していた。開店して3年経った78年の年明けの改装時に、何かジャズに纏わる写真が欲しくて彼に言うと、「僕の師匠がいる」と言って紹介してくれたのが内藤忠行だった。赤坂のスタジオに訪ねて、足の踏み場も無い程散乱した、膨大な量のキャビネ判の紙焼きからやっと選んだのが、先の人たちの写真だったが、それを機に交友するようになった。
 64年からジャズミュージシャンを撮りはじめ、ニューヨーク、ニューオーリンズとアメリカ世界に足を伸ばした彼は、渡辺貞男のアフリカ志向に同調して、ケニヤやタンザニアの<アフリカ>に魅せられたのを始め、十数年間アフリカにこだわり続けて撮ったその集大成が、世の写真界に衝撃を与えた写真集『ZEBURA』だったように、世界を目まぐるしく回る旺盛な行動力から生まれる陽動的な写真が内藤忠行の世界観だと思っていた。
 ところが1990年の春、内藤忠行はとんでもない写真集を出した。「SAKURA-COSM 桜」という写真集だった。上梓に合わせて開催された写真展初日の3月27日、ラフォーレミュージアム原宿の会場に行くと、巨大に引き伸ばされた写真の多くは天地左右が均等に分割された、まるで雪の結晶のような、いやいや桜の結晶にドドーッと襲われたのだった。自身が編み出した“T字のシンメトリー”のその桜シンメトリーは『ZEBURA』でも試みていたが、桜となるやそれは能役者の着物に見えて、まるで山姥に闇の中の薪能の世界に引きずり込まれた旅人のような錯覚に陥った。前文を書いていた池澤夏樹に依れば、「木の形態を司る定数は1種類の木についてはひとつしかない。ひとつの幹からはじまって枝や小枝や葉、そして葉脈までを決定するから、木の枝はどうしてもフラクタルになる」。そして「木がなければわれわれは存在しなかった。動物たちは生きる条件のすべてを木に仰いでいる」ことを知識で知る俺は、俺の視神経に送られたそのフラクタルな脳内画像が、桜の中に仏像や鬼や魑魅魍魎を捉えるのだった。数点置きにある、暗闇に或は月に映えた一本桜の写真も決まってしだれ桜という、妖しさに満ちたさしずめ悪戯が過ぎた黒魔術の世界を幻聴し幻視した。
 光源氏の時代から桜に魅せられ桜を畏怖し、小説に、音曲に、絵画に取り込んで来た先人に倣い、「レディ・ジェーン」は4月の第1日曜日に北沢川遊歩道で花見を恒例化していた。そして第1日曜日の4月1日、萩原朔太郎・葉子父子や横光利一、石川淳や三好達治の想像力を掻き立てた北沢川畔の桜の下で、少年の頃から親しんできた「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」と謳った不幸な作家の言葉が浮かんできて、俺はてっきり梶井基次郎に成ったつもりだった。