Flaneur, Rhum & Pop Culture
「1989 レクイエム」―その歌は突然受け取った
[ZIPANGU NEWS vol.92]より
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 1990年2月21日、『YUSAKU MATSUDA‾SOUL VIBRATION』〜松田優作のエネルギーが黒田征太郎の魂を揺さぶる〜とタイトルを付けた催しを行った。前年の11月6日に亡くなった松田優作の四十九日の法要を終えた席で、故人と音楽活動をともにやって来た梅林茂と、追悼の意を込めた催しを企画しようということになった。いち早くベスト・アルバム『YUSAKU MATSUDA (1978〜1987) 』が梅林茂プロデュースで発売されることになったので、それに連動する何かを当然やらざるを得なかった。故人所縁のビクター音楽産業(現ビクターエンタテインメント)の高垣健ディレクターに声を掛け、ビクター青山スタジオの一番大きな401スタジオを確保した。松田優作が生前身を預けていた育ての親、セントラル・アーツの黒澤満にも発起人に入って戴いた。「優作氏のポスターをキャンバスに、黒田征太郎が絵を描き続け、バックにはアルバムのサウンドと友人達の生演奏、クライマックスには友人、知人、関係者と数千枚の絵がスタジオを埋め尽くします。」という案内をしたためた、アルバム発売記念のイベント&パーティだった。会場費が無料はおろか、印刷物から宣伝経費までビクター音産におんぶだっこして、出演料も無料、入場料も無料にした。その代りビクター音産はアルバムを売り上げ、主催側の俺たちは絵を買ってもらい経費にした。それでも足りない分はドリンクと料理売り上げで補充したが、そんなことで帳尻が合う訳ないだろう。
 平日にも関わらず午後から夜中の24時近くまで続けた記憶がある。オープニングはアコーディオンの小林靖弘(現coba)とヴァイオリンの後藤龍伸率いる空中庭園弦楽カルテットが、これから起こることを予兆させるかのように、厳かに且つ激しく又フェリーニ的に祝祭式の音楽を奏でスタートした。俳優松田優作と脚本家の関係を一番密にしていた丸山昇一には、売れない頃本業にしていたというかって取った杵柄の司会を引き受けてもらった。「結婚式とは違うんだからな」と、事前のジョークの念押しにもやや緊張気味の丸山昇一から紹介された、一番手のミュージシャンの登場は宇崎竜童だった。
 89年の11月末か12月だったと思う。たまたま家で夜中にFMラジオを聴いていたら、近藤等則と宇崎竜童が出ている音楽番組があった。89年の話が始まり、俺は慌ててカセットテープをデッキに入れて録音した。ある予感がしたからだ。すると宇崎竜童が改まって、「1989年はすごく社会的にも世界的にも、そしてうんと個人的にも、大変なことがありました。鎮魂歌として1989年、勇気のために戦った世界中の人々に捧げるという『1989 レクイエム』をヴァイオリンの小塚靖と歌います」と、前振りして歌い出した。ラジオ局の録音スタジオからの生ライブだった。“友よ その知らせは今朝突然受け取った 君の死は俺たちに 勇気の素晴らしさ伝える…”という出だしの文句だけで衝撃を受けた。宇崎竜童の声はこれ以上無いほどの優しさに満ち溢れて、喋るように歌っていた。
 梅林茂も高垣健も黒澤満も知らなかった。それはそうだ。俺はこの偶然聴いた歌ほど、レクイエムのイベントの一曲目に相応し曲は無いと思って宇崎竜童に再現してもらった。未亡人になったばかりの松田美由紀が、微動だにしないで身体をこわばらせて聴いていた。新鮮でしめやかな空気が流れて、このイベントはうまくいくと確信した。何せ作曲&ギタリストの梅林茂、音楽ディレクターの高垣健、映画製作の黒澤満と俺の4人が発起人で始めた企画なので、イベント制作のノウハウを持ち合わせている者は誰もいない。強いて上げれば、我流を通してやって来た俺ぐらいだったから、初手から不安材料の固まりだった。年明けから急激に追い込みに入った俺たちは、ミーティングを重ね、故原田芳雄邸に詣でて協力を頼み、ARBのコンサートを終えた石橋凌やアナーキーの仲野茂のスタッフ参入を請うた。会場とステージ作りは、元祖「レディ・ジェーン」を内装工事した舞台美術家の大野泰に頼んだ。スタッフは増えても、ああだこうだが多くなって行くばかり、そうして何処までもプロのイベント制作会社に頼らない姿勢を貫き通した。
 “友よ 今朝は特に 朝の光が綺麗だった 君を見送るそのために 世界がレクイエム歌う”―宇崎竜童は歌い終わった。