Flaneur, Rhum & Pop Culture
阿部版『こんな風にすぎて行くのなら』
[ZIPANGU NEWS vol.83]より
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 昨年の11月末、大阪といえばたこ焼き、お好み焼きと並んで名が浮かんできおったプロデューサーの阿部登が死んだ。享年59歳だった。70年初頭の初代山下洋輔トリオのマネージャーをやっていた頃からだから、ざっと40年の付き合いだった。日比谷野音にイントレを3タワー建てて、山下トリオをゲストに迎えて共演した「演劇集団・変身」の解散公演が71年の秋だった。近年は名物「春一番コンサート」のプロデュースをしていて、金大煥やおおたか静流を出演させてもらったりした。11月29日、俺は初雪を冠った青森にいて、棟方志功記念館が休館だった勢もあって、往年当人が何回も宿泊しつつ創作に打ち込んだという由縁の浅虫温泉の椿館に宿を取っていた。阿部登の共通の知り合いの電話で前日28日、肺炎で逝ったと知らされた。時計は夕方5時を過ぎていた。式次第も何も知らなかったので黒田征太郎に電話をすると、「今から通夜で奈良の生駒に向かっている所だ」った。「大木さんの分も拝んでくるよ」と言ってくれて、俺は雪の露天風呂に浸かった。
 85年、テレビ朝日通りに「ロマーニッシェス・カフェ」をオープンしてからは頻繁に大阪詣でをするようになった。基本ベースは道頓堀川を背にしたビルのバー「イヴ」だった。各界の著名人やご意見番を夜毎うわばみのように吸い取っては吐き出していた。阿部登はいた。黒田征太郎は勿論いた。ミナミの番長だったオーナーの叶岡正篤も当然健在だった。ビルの一階の「石の花」、「イヴ」から独立した宗右衛門町の「つるつる」、新しく出来た支店の「メリケンジャップ」や「酒都」、心斎橋そばの大阪で1、2の古さを競う「フランス屋」、法善寺横町の「川名」、「ヴィクター」などがバー・クルージングのコースで、そこでは東京の俺でも嬉しいやら邪魔臭いやら、必ず顔見知りと会う羽目になっていた。大阪の乗りは東京とは違うのは承知している。
 89年3月13日も大阪にいた。居る予定じゃあ無かったのに居た。1916年に製作・公開(日本は19年)されたG・W・グリフィスの超大作映画『イントレランス』がある。アメリカばかりか世界の映画史に残る名画が日本にやって来たのだ。7日のみの上映だが会場は東京の武道館と大阪城ホールに新日本フィルのオーケストラを付けて、162分間の破格のプレミア上映だった。ところが、前売りを押さえてなくて気がついたときはソールドアウトだった。そこで、フジテレビが興行主催だったので古い知人に掛け合うと、「武道館のは1枚も残ってない。大阪なら何とか取れるが」という返事だった。一編の映画を観るために大阪行きとはどこの何様とは思ったが、阿部登や黒田征太郎の勢で大阪馴れになっていたのでスタスタ出掛けた。そんな映画体験は84年、カーマイン・コッポラ指揮による60名のオーケストラ付き、アベル・ガンス監督の『ナポレオン』('27)をNHKホールで観て以来だった。同時進行する4つ町や人の物語が人間のイントレランス(不寛容)から終末的悲劇に終わる。その物量、スケール、演出法において空前絶後と言うことはこの映画を於いてない。その映画裏話を追ったタウ゛ィアーニ兄弟の映画『グッド・モーニング・バビロン』('87)がある。ちなみに圧倒的な俯瞰撮影が行われていて、この俯瞰撮影・照明用のタワーを<イントレ>と言うが、それはこの映画が由来だ。それはさて置き名画鑑賞は疲れる。疲れたときは酒場に限る。
 既出のバー「酒都」でシングルモルト・スコッチを飲りつつ、今しがたの映画を振り返りながら身体をカウンター椅子に全面的に凭れかけていた。バーテンダーが話しかけてくる。「今晩黒田さん、坂田明さんとライブやってはりますよ。もう終わったんやないかね」と言ったから「エッ、そうなの!」と気色ばむと「探しましょうか」と来た。「いやいや」と俺。「そうでっか、会うたらええんとちゃいますか」とバーテンダーは大阪風情けを掛けてくる。その時だった。扉がばーんと開いたとたん「こちらに大木というお客が来てるらしいんで来ました」と言いながら黒田征太郎が坂田明と入ってきたではないか!何てことだ、大阪風罠に嵌められたのだった。夜はまだまだ入り口だった…。
 「春一番」のもう一人のプロデューサー福岡風太が追悼していた。「天国で『春一番』をやるのかも知らんが、なめんなヨ、思いっきりうらやましがらせたるさかい」と。今年の5月も「春一番」はやって来るということだ。