Flaneur, Rhum & Pop Culture
『MIDNIGHTSUN WILL NEVERSET』の旅の始まり
[ZIPANGU NEWS vol.67]より
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 「ナイン!ナイン!」と、俺はハンブルグの空港の係官から注意を受けていた。前号でドイツのメールス・ニュージャズ祭体験のことを書いたが、その8日前の1988年5月13日のことだった。ベルリン行きの国内便を待っていた時のことだが、成田空港からエアー・フランス機でパリのドゴール空港に着いた時、ベルリン行きに乗り換えるためには、シャトル・バスで別ターミナルに移動しなくてはならず、それを忘れていて当便に乗り遅れてしまったのだ。それで次のベルリン行きの便をチェックしたところ、ルフトハンザ機でハンブルグに行き、そこでベルリン行きのエアー・フランス機に乗り換える便が1番早いということだった。当時のドイツは東西に分裂していて、東ドイツ内にあるベルリンには、西ドイツのルフトハンザ機は入港出来ず、西ベルリンを政治管轄する第二次大戦勝利国のフランスとイギリスとアメリカの航空会社機が離着陸を許されていた。俺は自ら招いた失敗とはいえ、荷物は早やわが身を離れて西ベルリンのテーゲル空港に行っている訳で、それを確かめようとイライラしながら進入禁止通路に入って行こうとしていたらしかった。大声で「ナイン!」と忠告されても、見上げると通路は「7」だし、“誰に言ってんだ?”と無視していると、俺が言われていたのだ。ドイツへの初旅だというのに、英語のイエス・ノーに当たるヤー・ナインも頭に入ってなかった。といってもこれは笑いを取ろうとしている話でもない。結局、テーゲル空港に追いついた俺は、厳しい調べを受けながら無事に荷物を取り戻して、ベルリン1人旅の初日を始めたのだった。
 中央線や山手線のようなSバーンと地下鉄のUバーンを乗り継いだか、タクシーだったか忘れたが、東京の銀座みたいな市街中心地のクーダムでまずホテルを見つけた。部屋に入ると夕方で、ホッとすると腹がすいてきた。飯が先か酒が先か当然決まっている。裏路地のバーを見つけて扉を開ける。「ビッテ・アイン・シュタインヘーガー!」。2軒目も「ビッテ・アイン・シュタインヘーガー!」。そしてレストランに行き、「ビッテ・アイン・ドイチェビアー」と注文した後、「ビッテ・アイン・ハンブルグステーキ!」とハンバーグステーキのつもりで注文すると、「ハンブルグ・イズ・ノーザン・ディレクション」と返された。俺がさっき経由してきたところじゃないか!考えて「アイン・ドイチェステーキ!」と言うと正解だった。広い歩道に出されたテラス席で、9時を過ぎても一向に沈まない陽光の下、クインシー・ジョーンズ作曲の名曲、『ミッドナイトサン・ウィル・ネバーセット/真夜中の太陽は沈まず』のメロディが浮んできて想像力を働かせてくれるが、一人弥次喜多張りの初日を振り返りつつ、悲しい笑いが込み上げてくるのであった。
 2日目からは逆に開き直れるのだ。ベルリン訪問の目的は、3年前に西麻布に出した「ロマーニッシェス・カフェ」の屋号は、かつてベルリンにあったカフェの名をそのまま盗用したので、その言い訳を報告することだった。20年代からナチス・ヒトラーが台頭する30年代初頭まで、ソヴィエト革命を終えた激震の東欧世界にとって、最東の西欧の一大都市ベルリンの最先端文化発信基地として、当時のシュールレアリスト、ダダイスト、ドイツ表現主義者、革命家、思想家を飲み込んでいたのが元祖「ロマーニッシェス・カフェ」だった。東欧出身の15、6歳のビリー・ワイルダーやロバート・キャパは、無銭で何度も追い出されながら、無目的でこのカフェにしがみ着くことで世界に討って出て行ったのである。ユダヤ人の巣窟でもあったカフェは、ヒトラーによって即ち潰されたが、10年弱の命でベルリンやドイツの文化史に燦然と名を残している「ロマーニッシェス・カフェ」は、ニューヨークのクラブ・リッツやスピーク・イージー(もぐり酒場)、パリのカフェ・ロトンドやホテル・リッツ、ロンドンのホテル・サヴォイなどより、俺にとっては遥かに眩しくて刺激的だったのだ。
 クーダムの中心地でシンボルの、尖塔が爆撃されているウイルヘルム教会塔の隣の超近代ビル・ヨーロッパオイロパセンターセントラムの中の壁の一角に、小さく跡地を印す紋章を見つけた時、俺の心は溶けた。この極私的な喜びは、4日後ノーレンプラッツの本屋で、やっとぶ厚い「ロマーニッシェス」の古本を入手して、更に深まるのだった。