Flaneur, Rhum & Pop Culture
『ラジオのように』の震感は下北沢から始まった。
[ZIPANGU NEWS vol.63]より
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 下北沢に1954年開店して今なお健在のジャズ喫茶「マサコ」に入ったのは、街を訪れて1回目か2回目の1966年のある日だった。「マサコ」は新宿派の俺にとっても下北沢の象徴のようだった。
 72年のことだった。その頃になると俺は下北沢を熟知した遊民になっていて、勿論「マサコ」の常連客になっていた。当時東北沢に中央大学代々木寮があって後輩供の何人かが寮生をやっていた。下北沢で食って飲んで『リベレイション・ミュージック・オーケストラ』だ、『ビッチェズ・ブリュー』だ、映画だ演劇だとやっていると、必ず深夜2時3時になっていて、すずなり横丁の横にあったジャズ・バー「良子の店」を追い出された。とっくに終電は無い訳でタクシーなど利用する習性をまだ持ち合わせていなかった。そこで線路を新宿に向って歩き出すのだ。60年代終り頃からそんなことを繰り返して、中大代々木寮は俺の木賃宿だった。72年当時も1駅先の代々木上原のワンDKのアパートまでは辿り着けず代々木寮に沈没するのだった。だが当然寮など寝心地は悪く朝目覚めると「マサコ」を目指し回遊するのである。勿論今度は線路ではなく路地を行く。それと代々木寮の隣のプチ・カフェでモーニングセットを平らげて行くことは忘れなかった。「マサコ」のそれは不味かったからだ。10時開店、窓越しの朝日が眩しくソファーの破れから突き出したスプリングを照らしていた。「マサコ」はダンピィ・ママの奥田マサコの意向で、ジャズ喫茶の名前を謳いながら、正午まではジャズではなくシャンソンをかけていた。それを聞きながら起きている振りをしながらうたた寝をするのだ。それは金は無いが時間はあった俺にとって、何とも幸せな快楽の一刻だった。
 そんなある日、劇団の女優K江を誘って、やはり午前中の「マサコ」にいた。ダミアやグレコ、ジョルジュ・ブラッサンスやレオ・フェレなど語りシャンソンの本格派が常道で、たまに毛色の違う人気歌手ミレーユ・マチューが歌い上げていることはあった。朝日のアンニュイに包まれていると、突如躍動的なパーカッションのイントロが響いた。そしてそれはやがてホーンが加わって呪術的な様相を帯びていき、地球の鼓動を感知させていった。そして何よりも歌っているというか、感情を排した無機的な女声ボーカルの声が、〈世界が凍る〉と言った吉本隆明の言葉のように聞こえて後頭部に鈍器で殴られたような衝撃が走った。ブリジット・フォンテーヌの『ラジオのように』というLPレコードだった。初耳だったが共演しているコンボは、シカゴの先進的創造的音楽の協会AACMの中心メンバーで結成したアート・アンサンブル・オブ・シカゴだった。彼らは69年に渡欧していきなり決定的評価と名声を得ていたが、その時に残した最高傑作との呼び声高い『苦悩の人々』は俺の愛聴盤でもあった。若い女優のK江はブルブル震え出して俺の腕にしがみついていた。俺はその日にそのレコードを買った。
 84年の春、来日したアート・アンサンブル・オブ・シカゴを五反田ユーポートに聞きにいった3年後の87年、当欄の08年3月号で触れた故木立玲子が俺に会いに来て、「ブリジットを日本に呼ぼうと思っているのよ」と言った。木立玲子はフランスに何度も行き来していた音楽ジャーナリストで、ブリジット・フォンテーヌとは信頼し合う仲になっていた。俺は気色ばんだが、「ところが彼女は飛行機恐怖症で絶対乗らないと言うのよ」と続けた。「それじゃ、オリエント急行とシベリア鉄道にナホトカ航路か?無理だよ」と俺は言うしかなかった。秋も深くなった頃、「やっとブリジットを説得したの」と明るい声で再び言って来た。それは、「玲子が迎えに来てくれて、隣の座席から離れなければ行く」という条件だった。会場は渋谷パルコ劇場を押えていたプロデューサーの立川直樹と話がついた。
 翌年3月の7日間公演、パリに迎えに行った玲子に連れられてブリジットはやって来た。俺は初日と楽日の2回パルコに聞きに出掛けたが、玲子のセッティングにも関わらず楽屋を訪ねる勇気は遂に出なかった。「残念だわ」と捨て台詞を残してブリジットを送って行ったまま、パリに居続けた玲子から電話があった。サンルイ島に住むブリジットにどうしても会わせたいのだそうだった。5月13日、俺は意を決して成田空港のパリ行き出発ロビーにいた。