Flaneur, Rhum & Pop Culture
円月殺法の系譜
[ZIPANGU NEWS vol.59]より
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 昨年末、パリに在住して6年になる仲野麻紀というサックス&クラリネット奏者のライブを「レディ・ジェーン」でやった。3回目の今回は「エリック・サティ『ゆがんだ踊り』」と題した新譜CD発売記念の帰国ツアーで、ヤン・ピタールというギタリスト&ウード奏者のアラブ系フランス人との共演だった。当然サティ曲が中心だが、ジャズの曲もやれば武満徹の曲にも及んだ。オーネット・コールマンの曲を演奏中のことだった。アルト・サックスからソプラノに持ち替えて吹きながら楽器をクルクルと廻し始めたのだ。店内の空気を撹乱するというか、気流が出来て音にウエーブがかかって心地良い。近藤等則は演奏中よくそうやっているが、ソプラノサックスで必ずやっていた男性音楽家のことを思い出した。
 その男マイク・エリスとは、「レディ・ジェーン」と「ロマーニッシェス・カフェ」両方で1987年の秋頃から付き合い出した。スティーブ・レイシーを尊敬していてサックスはソプラノだけしかやらず、アメリカンのはずなのにパリジャンを匂わしていた。当時は東京に仮住まいしていて、故に頻繁にライブをやった。88年に入ると、彼のレギュラーバンドであるマイク・エリス&トム・アレキサンダー・クインテットの頭文字を取ったM・E・T・Aで、新譜『M・E・T・A PHYSICS』を出したのを憶えている。麻紀と曲が重なるO・コールマンや勿論S・レイシー・ソングが、ガイジンの東洋神秘志向を加味して調理されていたが、変な違和感はなくストレートでコンテンポラリーなサウンドは歯切が良かった。瞬間懐かしさを憶え20余年前のフライヤーをファイルから取り出してめくってみた。
 特に86年から出した「ロマーニッシェス・カフェ」のフライヤー作りには一寸と力を入れていたようだ。A4サイズを半折りにして4ページにした極く単純なマンスリーの冊子だったが、出演者の写真入りライブ告知の他、毎号友人知人にエッセイを投稿してもらっていたし、表紙にはジャック・アンリ・ラルティーグの写真を掲載していた。4ページ目の下帯にはビールの広告が載っていて、経費対策をしていたのかという記憶とともに色んなことが思い出されてきた。
まず下帯の広告主を捜そうと思ったが、その前に広告商店は何が良いのか何であるべきかだった。バドワイザーやクワーズのアメリカンで良いのか?店自体の屋号は、第一次大戦後のドイツ・ワイマール文化が華ひらいたベルリンにあって、ナチス・ドイツが台頭してきた32年頃、ダダイストやアナーキストたちの梁山泊であることから、頽廃文化の中核の汚名を着せられ潰されていった伝説の店名をそのまま盗用していたので、ドイツ系にすべきだろうと、当時日本国内でも発売を始めていたレーベンブロイに的を絞って、その輸入代理店だったアサヒビールと交渉することにした。と言っても、インテリア・デザイナーの内田繁と400枚のタイル画を壁に塗り込めた黒田征太郎の仕業に加えて、ニューヨークでもパリでもロンドンでもなく表現主義のベルリン20年代をコンセプトにした店は超レアものだったらしく、自分で言うのもナニであるがジャーナリズムやマスコミや広告代理店の連中がとぐろを巻いていた。然るにアサヒビールの担当者も常連になっていたのだ。
 下帯び広告と共にレイアウト&デザインの雛形をデザイナーに決めてもらってからは、俺は版下制作という1人遊びに秘かに興じ始めたのだ。タイトルやキャプションを自ら書いて、出演者の名前からゲスト原稿、トリミングした写真の一切を写殖屋に発注する。翌日取ってきた写殖は、細かく切り取りペーパーボンドとピンでひとつひとつ貼り付ける。イラストも選んで飾る。版下が出来ると表のラルティーグの写真を選び色を選び印刷屋に自転車で飛ばす。毎月4日間の内職は10年続けた。おいマイク!パリじゃ知らないと麻紀は言うけど、何処かに居るのなら東京へやって来て又円月殺法やってみろよ。内職仕事の幾%はお前のせいだったんだから。