Flaneur, Rhum & Pop Culture
散る落葉、散る者たち
[ZIPANGU NEWS vol.58]より
LADY JANE LOGO











 今年の10月の或る日、年間企画をしているオリエンタルホテル広島で、ベルリンに在住するピアニストの高瀬アキのコンサートをやった。共演者は彼女の元生徒で今やヨーロッパのジャズ界の最注目株に成長したサックス&クラリネット奏者のジルケ・エバーハルトだった。終演後、ホテルの23階にある広島の夜景が展望できるレストランで打ち上げをしようということになった。当夜のお客も何人かが同席したのだが、その内の1人にRCC中国放送の鈴木恒一郎がいた。高瀬アキとも何十年の付き合いで、昔広島リアルジャズ集団を組織していた男だった。席は盛り上がって昔話になっていった。「ジョン・ゾーン事件あったよな」と俺。「そうそう、あったあった」と鈴木恒一郎。
 1987年の11月、その鈴木恒一郎からわが「ロマーニッシェス・カフェ」に電話が入った。「どうして?どうやって口説いたのかおしえてくれ」という内容だった。ニューヨークに住むサックス奏者のジョン・ゾーンがわが店にも広島にも出演する予定だった。ところが直前になって出られなくなったと断ってきたのだ。ニューヨークからの電話に、俺は相当抵抗して、理由が「友人の結婚式がある」だったから、強引に予定通り出演することを説得した。ところが「ロマーニッシェス・カフェ」より2、3日前だった広島は、鈴木恒一郎に頼まれてジョンへの説得活動を2度程ニューヨークに電話を入れてやってみたが、広島に関しては元に戻らなかった。鈴木恒一郎は、急遽ジョンに替えて高橋悠治や小杉武久や、ペーター・ブロッツマンをエキストラにしてコンサートはやり終えたが、“ジョン・ゾーンを2度と広島へ入れない運動”も火が点いていった。俺の方はというと、ジョンから翻意の返事を聞いてホッとしていた2、3日たった或る日、今度は共演者に予定していたドラムの豊住芳三郎から電話を受けた。「(共演者予定の)デレクが今日ロンドンから東京に着いたんだけど、出ないって言い出したんだよ」だった。デレクとはフリージャズの先端を行っていた唯一無二のイギリスのギタリストで、哲学者のような風貌や物腰もあって周りから敬拝を持って眺められていた存在だった。後頭部の強い衝撃にも耐えて、「冗談じゃないッすよ。どういうことなんだ?」から始まり「責任を取るというのは予定通り演るしかない!」という俺の言葉に「尊敬するデレクがやらないと言っている以上、俺はやらないことを尊敬するしかない」という豊住芳三郎から、デレク・ベイリーのホテルと部屋を聞き、アポの電話を入れた。ミュージシャンが呼び屋の真似をするからこんなことになる日本の貧弱な音楽の文化土壌を恨んだ。
 11月10日、新宿にあるホテルにデレク・ベイリーを訪ね、ホテルの喫茶ルームではなくて外を歩こうとなった。枯葉の舞い散る西口中央公園を相当歩くと木製のベンチが目に入った。そこに座ろうと彼が言った。2周年記念イベントだった。やってくれなきゃ駄目だと説得した。1時間位経ったのは、英語が下手なのと音楽的というか感情的ではなくて多少理論的でないとまずかったせいだ。すると彼は口を開いた。「こうするのはどうか?まず一部のスタートでジョンとサブ(豊住)が演奏する。それを見て参加するかどうかを決めるのはどうか?」それを聞いた俺は「ああ、これはほぼ出演許諾の答えだな」と思って、「OK」と返事をした。彼はシェークハンドの右手を出した。11日後の21日の夜、1部の1曲目からせーえのと3人同時に音出しで2周年記念ライブは始まった。俺は気が抜けたが、すぐさま感動を取り戻した。
 今年の5月に韓国の姜泰煥を呼んで2週間たっぷりと高橋悠治や田中泯とライブツアーをやったが、71、2年頃、その田中泯の舞踊とドラムのミルフォード・グレイヴスと共演して依頼のデレクを目の当りにした。色々と衝撃をくれた彼も05年に没した。