Flaneur, Rhum & Pop Culture
泡で踊れず野球拳で踊ってみたが
[ZIPANGU NEWS vol.57]より
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 1987年は後半ともなると昭和から平成になる約1年前ということになり、時代はマジックよりインクジェットが、ボールペンよりキーボードが、個人の才よりシステムが重宝され情報の奴隷になった。カセットやビデオの背のラベルはおろか書面のやりとりも、〈キレイ〉な活字で埋まった紙面でカッコ付けないと、御社や弊社の信用度に欠けるというか商談成立の必須条件かのようになっていった。バイオ技術はアサヒスーパードライを断とつのヒット商品にして、時代のステイタスを得たDINKSたちは、カウチポテト族となって、生活スタイルを特権化していった。何を言っているか分らないだろう?DINKS(ディンクス)とはDOUBLE IN COME NO KIDSの略で、高学歴高収入の男女が子供を作らないで高級の暮らしを高級マンションで送ること。自宅の大型スクリーンとデジタルでシステム化された製品に囲まれて、ポテトチップを手に寝椅子(カウチ)で余暇を楽しむ新型都市人間を指した造語で、人生の無駄を省いた人種のことだ。尤もそうした連中ともかけ離れた、ゴッホの「ひまわり」を53億円で買って大顰蹙を買った安田海上火災などという人種もいたが。
 国民的でもあり超権威的でもあった国鉄が114年の歴史に幕を下ろし、JRなどと安っぽい横文字になった秋は10月、慰安旅行に出掛けた。群馬県利根郡川場村は、関越自動車道の月夜野インターで下りて、猿ケ京温泉を西に眺め裏に尾瀬ヶ原を控えた武尊山麗に広がる扇状の山間にあった。世田谷区の保養施設のその「健康村」で「レディ・ジェーン」と「ロマーニッシェス・カフェ」のスタッフと家族15、6名は、学生時代のようになって自然と戯れる2泊3日を愉しんで都会の垢を落とした。大浴場や特に大食堂では、持ち込んだ酒と料理が切れるまで大宴会を繰り広げて、何回も管理人の叱責を受けながら都会人の恥を捨てた。
 東京に戻ってくると、落葉の舗道やハイテク蕎麦屋やカフェ・バーで「ギャルソン」や「Y,S」の黒い服を着たブランド好きのDINKSたちが、水や空気を金で買って飲んでいた。俺たちは酒を飲みながら、「週刊朝日」の編集者だった森啓次郎と、“新坊ちゃん松山に帰る”のグラビアを決めて松山行きを決めた。
 一行は、新坊ちゃんは当然漱石の孫の夏目房之介、山嵐に「アエラ」のアート・ディレクターだった故東盛太郎、朝日のカメラマンと森啓次郎、それに赤シャツの俺だった。“マドンナがいないじゃないか!”の声にも、松山市がその年のミス松山を用意してくれて現地で仲間入りした。松山市立子規記念館の手厚い接待を受けて、子規と漱石が50日間一緒に過ごしたという「愚陀仏庵」や、日本最古の道後温泉に漬かり「坊ちゃんの間」で憩いだり、旧制松山高校を訪問したりしたが、主役の夏目房之介はいざ知らず、目的は夜にあったから殆んど訳も分らず過ぎていった。夜を迎えた。道後一の古き木造旅館かわきち別荘の一番部屋で、道後一の芸者衆を座敷に上げて遊ぶという趣向も、子規の土地なら野球拳で芸者を脱がすはずが逆に脱がされ、石部金吉だった記念館の堅物課長が突如酒乱と化すは、果ては夏目房之介が“俺は東京へ帰る!”と怒って取材が没になりかけるは、狂乱の一夜が小説以上に繰り拡がり、翌日のマスコミ会見では皆々平身低頭の有りさまだった。87年ならではのバブル体験の一巻だったが、1坪当たり1億円の狂乱地価が出現した年だと思えば、一夜の狂乱などたわいもなさ過ぎたであろう。ところが同夜、東京ではニューヨークの余波を受けて、29年の大恐慌を上回る株価の大暴落(38,363円48銭)が報じられていたなどと知る由もなかった。
「バブル後不況に打ちひしがれていた日本国の財務相が米大統領に金融危機対策の講釈を垂れた。有害物入り食品輸出で白眼視された中国政府が、毒入り金融商品をばら撒いた米国の政策を批判する」-これ21年経った原稿を書いている今日(08年10月20日)の新聞記事だよ。退化こそすれ何も変ってないじゃないか!