Flaneur, Rhum & Pop Culture
『ジゼル』から「ラスト・ダンス」の時の流れ
[ZIPANGU NEWS vol.55]より
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 今秋の10月4日から13日まで、渋谷のシアター・コクーンに「エリザベス一世〜ラスト・ダンス〜」という舞台がやってくる。あのリンゼイ・ケンプ・カンパニーの日本公演2008だ。最後に来日して以来10年以上は経っているはずだが、リンゼイ・ケンプ自身相当な年を取っているはずで、タイトルはエリザベス一世のためのラスト・ダンスという内容のことなのか、カンパニーとしてラストの踊りだと言っているのか判らない。そんなことより1日でも早く切符を入手することが肝腎ではないか。
 リンゼイ・ケンプ・カンパニーは、1986年『真夏の夜の夢』で初来日した。初めてステージを目にした観客は、闇の中から浮かび上がるキラキラした幻想的な光の雨、リンゼイの独自性溢れるステージ構成と、それを決定的にするカンパニーの身体性の勇躍に唖然として声も出せない拍手も出来なかった。リンゼイ・ケンプ・カンパニーは翌年の87年にもやってきた。出し物はジャン・ジュネの小説「花のノートルダム」を舞台化した『フラワーズ』だった。当時の自分のエッセイを引っ張り出すと、「日本の舞踏集団のように、異種の肉体への変身願望と、仮面の意味を持つ白塗りで皆全裸に近かった。踊りも、跳躍する西洋バレエの中に日本の舞踏を取り入れて、その振幅の大きさがスケール感を出していた」などと書いている。ジュネは小説家でありながら、実際泥棒で詐欺師で男色家という、殺人以外はすべてをやった反社会的存在だった男で、サルトルを中心とした文学者たちが、ジュネの刑務所出獄運動に駆けずり廻ったりしていたこともあった。ジュネは現実社会を否定したりはせず、すべてを肯定した上で反社会的行為者となる。つまり本質から犯罪者になるという思想は、実現実では仲々受け入れられなかったが、想像力は多いに掻き立てられる訳で、映画では難しくても舞台化では世界で持て囃された。片やリンゼイもデヴィッド・ボウイに、「リンゼイと一緒にいることで、計り知れない程のものを学んだ」と言わしめて、『ジギー・スターダスト』を演出したり、エイズで死んだ鬼才デレク・ジャーマン監督作品へ参加したり、ルドルフ・ヌレエフ、ケン・ラッセル、ブライアン・イーノ、ケイト・ブッシュなど影響を受けた各界著名人は計り知れない。
 87年7月22日、『フラワーズ』の初日に五反田ゆうぽうとに出掛けた。年老いた男娼のディヴィーヌも恋心には多感だ。そのヒモとの間に割って入る美少年・花のノートルダムの三角関係となれば、どっちに分があるかは明らかだ。だが猥雑な喧騒もたちまち聖なる領域に運んでしまうのがジュネであり、悪徳のブリキを巧徳のダイヤに変えてしまうのがリンゼイだ。その神聖な域に昇り詰めようとした時、下手の袖奥からフランス語と英語の私語と哄笑が聞こえてきた。ステージでは花のノートルダムにヒモを奪われた老オカマが、バレエの『ジゼル』を悲しみで踊っている。西洋バレエのそれではなく暗黒舞踏のジゼルのようでもあった。私語と哄笑は続いていた。一喝しようと席を立ったが、隣席の妻に制されたので終演後、責任者を呼び出し、「日本を馬鹿にするにも程がある。原因を追求して責任をとれ!」となった。問答の末、切符を再発行してもらい、その時までに説明出来るようにしておくということでその夜は帰った。再び出掛けたのは8月4日の楽日だった。舞台は密度を更に濃くしているように感じた。
 その翌夜のことだった。わが「ロマーニッシェス・カフェ」に入って来たのは何とリンゼイではないか!連れてきたのは沢田研二のマネージャーをしていた大輪茂男で、後に続くのは招聘元のテイト・コーポレーションの代表、又平亨ではないか!といっても後に名を知ることになったのだが、俺と喧嘩したばかりの責任者だった。2人は一瞬アッ!となってフリーズした後、同席したテーブルでは、『フラワーズ』の舞台とジュネ話に花が咲き、その分グラスもお替りして夜は更けゆくのだった。