Flaneur, Rhum & Pop Culture
彼の地球儀は中国を指していた。
[ZIPANGU NEWS vol.54]より
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 地上げや建築基準法の影響を受けた悪しき下北沢事情は、先輩店の「レディ・ジェーン」にまかせて、西麻布のテレビ朝日通りに作った「ロマーニッシェス・カフェ」は、3年目の1987年を迎えてバブル・エイジの真ッ只中にいた。別名音楽実験室とも言われていたそのバーで、俺はライブの原則を一丁前にも、・旧来のものはやらない。・実験的要素が取り入れられていること、・未完のものであること、を標榜して前衛を気取っていた。常づね大木イズジャズの型で見られることにうんざりしていたが、そんな視線には無関心を装い、下北沢からセオリーを逸脱するようなライブをセットしてきていた。
 そんな年の春まだ浅き或る日、松田優作がやって来て、と言ってもいつも居たのだが、「ここのライブに出させてくれないか」と言った。松田優作は俳優として一里塚を築き頂点に向っていたが、繰り返しを好まず人が手を付けていない個所に着目する進取の気性に富んでいた。そんなところが旨が合っていたのだろう。彼は俳優の片わら音楽活動にも入っていったが、音楽に対しても向い方は同様だった。82年のアルバム『インテリア』辺りからコンサートに足を運ぶようになったが、85年の『DEJA-VU/松田優作 with EX』からは、録音現場のビクター青山スタジオに詰めかけるようになった。それが昂じて最後のアルバムとなった87年の「D・F・NUANCE BAND」の録音時には、殆んどの時間付き合ったのではなかったろうか。1枚1枚極端に変化していき、以前の〈ブルースを演じていた〉彼はどこにも居なくなっていた。だから先述の〔俳優の片わら〕云々というのは嘘で、俳優と同熱量を音楽に注ぎ込んでいた。
 ライブをと言って松田優作がその「D・F・NUANCE BAND」のレコード発売記念ツアーの初日に選んだのが「ロマーニッシェス・カフェ」だった。しかも、続くオールナイトフジ、横浜氷川丸、大阪、名古屋と廻って新宿厚生年金会館で燃え尽きる予定だったのに、「『ロマーニッシェス・カフェ』で始まって『ロマーニッシェス・カフェ』で終わるライブにする」などと言ったのだ。一体何を考えているんだ、とも思ったが、以前から何回もライブに客で来ていたし、日頃の彼の言動から察してその心情は痛いほど熱く伝わってきた。メンバーは梅林茂が抜けた後、責任者に指名されて苦心を重ねた作曲とベースの奈良敏博、ドラムス&パーカッションの羽山伸也、代表作の1曲となった『灰色の街』の原曲『迷い鳥』の作曲家であり、数年振りに組んだギターの李世福の3人だった。そのオリジナルLP盤が発売された4月21日の早い夜、あらかじめサインを入れた1枚を抱えて「レディ・ジェーン」にやってきた。ジャケットはX線を通したような粒子の粗い本人の写真に「D・F・NUANCE BAND」と小さく表記されていて殆んどメンバーの一員と化しているようだった。
 4月28日夕方、店の上階のホテルマンションの1室をリザーブして待っていると彼はやってきた。近所と言えば近所の白金にある都ホテルからやってきた。その前の夜、軽い打合わせと称して来店した後、都ホテルにチェックインしたのだ。以前から聞いていたお気に入りのホテルとは言え、同じ東京にある自宅からではなく、ホテルから現場入りするところが、如何にも優作流だった。
 『アメリカ』や『サイゴン』、『オデッサ』の都市名を冠した曲に、ルー・リードやデヴィド・ボウイの影が通り過ぎたが、何よりも彼が憧れていたブライアン・フェリーのセンスと振りを、自らが作った難曲の中で我がものにした松田優作がいた。そして『チャイナモルゲン』や『ハートブレイククーニャン』の演奏には、「中国は凄くなるよ」「中国へ行きたい」と何度も俺に語った姿が、今でも耳目に残っている。
 ツアーの最後、「ロマーニッシェス・カフェ」に再び戻った後、二度とステージに立つことは無かった。