Flaneur, Rhum & Pop Culture

土佐にも源氏が居たという話
[ZIPANGU NEWS vol.41]より
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 1985年4月の本多劇場でやった「TOKYO HIGH-KU MEETING(トーキョーハイクミーティング)」を終えると暫くボーッとしていた。社会全体を大きく捉えるとボーとした時代でもあった。直後にあった〈ウィーンの愛と憂愁・クリムトとエゴン・シーレ展〉は印象を深くした。ウィーン印象派などと言われ、曲線と装飾的な画風が世紀末観漂う退廃色の強い師匠のクリムトの「ダナエ」が特に好きだ。スペイン風邪でクリムトと同じ18年に死んだ弟子のエゴン・シーレは、優れたデッサン力で表現主義的な絵画を描く。ウィーン分離派と呼ばれ死を想起させるその絵は、震える魂に満ちていて20代は1番魅せられていた画家だった。翌日は友人の画展だった。タイトルが〈逆修展〉だった。逆修とは、生前に自分のために仏事を行ないアラカジ逆め冥福を修めるという意か、老いた男が生き残って若い者が早死にすることをいうが、後輩の誰かが亡くなったのだろうか、果してどっちの意だったのだろう。俺の場合、今であれば盛んに後者の連続である。いずれにしてもその画家・有賀真澄はドイツの画家・ホルスト・ヤンセンにも似た、暖色系を排して寒色系の油絵の具を重ねて描く蒼然とした世界を表現する絵描きだ。刻として騙し絵風に淡い暖色絵の具で1点男女の陰部を埋もれさせているのが、かすかに生への歓びを感じさせている。〈葉種梅雨 桜ハヤ逸めて 木馬の乱〉と詠んで、俺の〈逆修展〉への挨拶としたつもりだったが・・・。馬鹿な暇つぶしはそれ位にして、4月末に吉報が飛び込んで来た。

 世界的な名声と伝統あるエジンバラ国際演劇祭に、演劇時代の先輩の坂本長利の1人芝居「土佐源氏」が正式招聘を受けたのだった。当時で既に上演回数は900回を超えていた「土佐源氏」を何回観て何回かスタッフで関わったことのある俺は、すぐさま壮行公演を打ち上げる企画を立てた。場所は隅田川は永代橋の向う岸にあった、西武美術館のキュレーターをしてらした小池一子が管理運営していた「佐賀町エキジビット・スペース」を借りることが出来た。7月初旬に決めて動き出したが無謀と判り、1月遅らせて8月3・4日3公演にした。ビクター音楽産業から「土佐源氏」のビデオを借りて、即席でつくった「土佐源氏」の英国公演を支援する会の花光潤子と田子文章の2人、「レディ・ジェーン」の内装をデザインした舞台美術家の大野泰は、又また俺に巻き込まれて、改めて芝居のチェックから始めた。

「佐賀町エキジビット・スペース」は大正か昭和初期の広い西洋建築で、小豆や大豆を中心にした穀物倉庫だった建物は、往事の勢いを偲ばせて、天井はやたら高くアール・ヌーボーの円いデザインにステンド・グラスの異空間だった。出し物の「土佐源氏」は、極道の末に盲目の乞食に身を落とした元馬喰の一代記で、民俗学者の宮本常一が土佐ユスハラ梼原の橋の下で、昭和16年に実際に本人から聞き書きしたものだ。以前にもこの場か別の連載かで書いた記憶があるが、下北沢の当時の1番小さな劇場ロングラン・シアターのレイトショーで、駆けだしだった立川志の輔と交互に不連続公演を続けていた「土佐源氏」に付き合ったり、佐賀町の同じ現場で行われた「風雅頌」という、ヤスカズ、篠崎正嗣、大友柳太郎の息子の中富、そして日本デビューだった龍笛の劉宏軍の4人組の公演は多いに参考にさせて戴いた。

 さて当日、百目ろうそくが揺らめいて開演。話が色懺悔なので、死の匂いを漂わせながらも性を通して生に向う神妙な世界だ。終ると客は元気をもらっているのだ。クリムト〜エゴン・シーレ〜有賀真澄と通底している。

 エジンバラ国際演劇祭では絶賛を博し、同時招聘の大芝居「蜷川幸雄マクベス」を向うに廻し、第24回紀伊国屋演劇賞を帰国後受賞したのだが、今だ続いているのが凄い!