Flaneur, Rhum & Pop Culture

ロン・ヤスが契りを結んだ密月の頃
[ZIPANGU NEWS vol.38]より
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 1984年も暮れようとしていた。年明け1月に「レディ・ジェーン」が10周年を迎えるので、その大々的な?披露パーティを青山三丁目のベルコモンズに決めて、あれこれ日夜思案投首していた。秋吉敏子&ニュージャズビッグバンドをユーポートに聴きに行き、富樫雅彦を草月ホールに、山下洋輔をギャラリー上田に、ジョージ・アダムス&ドン・ピューレンをヤマハホールに、ウイントン・マルサリスをサンプラザに、MOBO倶楽部を厚生年金会館に、・アストル・ピアソラをユーポートに、桃井かおりを厚生年金会館に、大塚まさじを俳優座にと慌しい年の暮れを足繁く通ったが、「レディ・ジェーン」のライブは当然としても、10月から始まっていた松田優作ウィズEXのライブ・ツアーが12月まで続いていて、そこに多く時間を取られた印象を残した年の瀬だった。その松田優作が、「俺10周年の発起人やるから」と名乗りを上げて、更にああでもない、こうでもないの企画会議のディテールが、酒場で鮨屋で深まっていくのだった。

 だがその頃、俺はガン・ノイローゼに見舞われていて、今日は日大病院、明日はガン検診センターへと通っていた。頻繁にコンサートに出掛けて帰りに酒場を覗くパターンは極く通常のことだったし、勿論10周年の企画内容に悩んでとかではない。60歳で食道ガンで死んだ親父を初め、伯父伯母従兄弟と立て続けに7-8人ガンで亡くなって、ガン家系が立証されてノイローゼに拍車を掛けたのかも知れないが、そのきっかけは下北沢の街と人にあったというのが得に勝手な思いなのだ。この〈妄想〉を40歳を翌年に控えた〈男の四十坂〉とでも言っておこうか。

 30歳になる年で始めた店が9年経ち、10年目の来年には特に音楽の場を求めて、下北沢の街を捜し廻った年でもあった。ところが驚いた。当時の中曽根政権が行った建築基準法の規制緩和という改悪は、下北沢の街並みを、道路面に関していえば根こそぎ変えた。由由しきことは当然だったが、もっと俺自身の金銭に関わる卑近で重大なことは、地酒、テナント料が渋谷、青山並みに高騰したことだった。誰と誰が何のためにそうした策略を弄するのか、嘆き腹が立ち下北沢の街を嫌いになってよその街に目を向けるようになった。

 この件りは以前にも触れたが、今まさに下北沢がそんな程度では納まらない大開発が強行実施されようとしている現在、繰り返し書かない訳にはいかない。今回の環七幅の道路建設や地区計画は、心情の次元ではなくて街と人の死活問題として突きつけられているからだ。そうした意味では、嫌いな選挙も4月8日の都知事都議選、その直後の4月22日の世田谷区長区議選は、重要な方向性を定める分岐点として位置づけるべきだろう。

 83年に戻る。それで渋谷、原宿、青山、西麻布、恵比寿まで捜し始めた。言っておくがガキの頃から港区は避ける位肌の合わない街だったのだが、おまけに10周年の会場も青山になっていた。下北沢の街には数百人規模の空間が無いという問題は今だに続いている問題だが、心の枷が取れたのか投げやりになったかは知らない。街を変えていった連中から俺は、_背を向けた奴“と非難を幾つも浴びる羽目になった。「レディ・ジェーン」があるにも関わらずだ。シモキタ村社会の無意識的集団行動だった。結局バカバカしくなって、同年秋に同行した映画「家族ゲーム」のニューヨーク封切時、街を歩いていて急に襲ってきたニューヨーク店構想に切り替えたのだった。

「家族ゲーム」の主演俳優松田優作は、長く住み慣れた下北沢から杉並の善福寺へ引越しすべく土地を手に入れた。12月も押し迫った暮れに地鎮祭があった。更地に飾られた注連縄(シメナワ)の紙垂(シデ)が、夕暮れの木枯しにピューピュー舞い上って、ことの終りと始まりを象徴しているようだった。