Flaneur, Rhum & Pop Culture

ひとりの道人との交わり
[ZIPANGU NEWS vol.37]より
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 1984年、俺の中で後に大事なことになっていった発端の出来事を、書き損じていたのでそれに触れる。

 3月、トランペッターの近藤等則が組織した「東京ミーティング」が行われた。渋谷の井の頭線駅の横にあったライブインだった。彼は既に「レディ・ジェーン」には出演していて知己だったので、誘われるままに出掛けた。広めの店内は異様な熱気に包まれていた。怒髪天のカオスだった。高橋悠治、渡辺香津美、坂本龍一、仙場清彦に、ペーター・ブロッツマン、ヘンリー・カイザー、ビル・ラズウェル、ロドニー・ドラマー、セシル・モンローという顔ぶれで、総てが即興演奏の組合せはミュージシャンの相互自主選択で決めたという。続いて第2回「東京ミーティング」が翌85年、立川の昭和記念公園で行われたのだが、外国は視点を東アジアに移して、韓国のサムルノリ、そしてそのリーダーの金徳朱に紹介された姜泰煥(カン・テーファン)トリオの初来日だった。同年「ソウル・ミーティング」を経て86年単独初来日すると、それが頻繁になった。しかし、サックスの姜泰煥、トランペットの雀善培(チェ・ソンベ)、ドラムスの金大煥(キム・デーファン)の韓国唯一無二のフリー・ジャズ・グループは、日本の多くのミュージシャンに影響と課題を与えて解散してしまった。だがこの解散がより自由度を増した3人とそれぞれ個別に、「レディ・ジェーン」や「ロマーニッシェス・カフェ」で、日本の強者や外国の腕達者と度重なる即興演奏の歴史を残すことになった。そればかりか、特に頻繁に出演していた最年長のキムさんこと金大煥に関しては、90年代になると日本でのプロデューサーを引き受けるハメになってしまった。

 キムさんが日本を愛し来日を続けたのは多少理由がある。若い頃、「アド・フォー」という韓国一のバンドのリーダーとして、初代グループ・サウンズ協会の会長にもなった当人は、音楽を急激に一時停止、人生を大きく軌道修正していった。金剛経や般若心経を書いたり彫ったりを繰り返し、それは雅号を如水と名のり、大書は大統領から注文を受けるようになり、微細彫刻は米1粒に283文字の般若心経を彫るという偉業まで到達しながら、「宗教のためじゃなくて芸術のためなんだ」と言いつつ、巨音と微音の音楽の宇宙に突き進む鍛練とした。「韓国はキリスト教文化で漢字がすたれてハングル字だらけになっている。深い意味を持つ漢字の仏教国日本が好きだ。フリージャズを通して日本で学ばせてもらっている」のだった。自慢げに言えば、そんなキムさんに報いるために、99年秋には金大煥音楽生活50周年記念と称して、原宿のクエストホールで8日間ものイベントを、暴挙したりもした。以後金銭的に身動き取れなくなったりもしたが、喉元過ぎれば何とやらで、来日公演の企画を繰り返した。

 そして04年3月1日、突然肺炎のため帰らぬ人となった。1月に教鞭を執っていた漢城(ハンソン)大学から名誉哲学博士号を授与された記念もあって、俺は1ヶ月後の4月2日から来日公演を企画してたのだった。ソウルに飛んで行きたい思いを押さえ、急拠追悼公演に切り替えて再装備した。それぞれの日の共演予定者だったさがゆき、坂田明、おおたか静流、太田恵資、佐藤通弘、田辺頌山に加えて、林英哲、黒田京子、早坂紗知、梅津和時、山下洋輔が助っ人に来てくれた。キムさんと尋常ではない共演が行われたのは言うまでもない。

 葬列にはあらゆる文化人、芸術家、政界、財界の重鎮が集い、パトカーとハーレー・ダビッドソン30台が道路一面に広がって先導する国葬級のニュースを後日知るに及び、「僕は高い所でなく遠い所へ行こうと思う」と俺に言う日本で無名の金大煥は、最高の自由人で道人だったと改めて思うのだった。
近藤等則がいて、金徳朱がいて、命の連鎖が終生の追憶の人と出会わせてくれる、その不思議さに感謝を込めたいと思う。