Flaneur, Rhum & Pop Culture

第一次下北沢改変下の二号店計画
[ZIPANGU NEWS vol.30]より
LADY JANE LOGO












 かくて84年3月3日24時に開演した「春一番ジャズ」コンサートは4時半に終演した。素人のコンサート・プロデューサーの割には、そして大入りの期待できないジャズコンサートとしては、400名弱の本多劇場のキャパは埋まっていたし、演奏の中身は腕と癖のあるミュージシャンばかりで、当然スリルに満ちていた。即バラシに搬出、明けて4日は日曜日なので、劇場を又貸ししてくれた五月舎のマチネー公演に、万全を期して明け渡さねばならなかった。その頃はまだ元気で、充分朝を迎えた時刻から、やはり打ち上げを断行した。しかも4日の夜は、以前から予定していた友人の店の新装開店パーティーだった。

 疲れも睡眠不足も何のその、新宿にオープンした「ライムライト」というカフェ・バーに出掛けた。その店のオーナーの安田末範とは奇しく縁があって、下北沢に馴染む以前の、新宿がもっとも新宿らしく燃えていた60年代後半の時代、俺は新宿のジャズバーやジャズ喫茶は網羅していたが、中でも取りわけ溜まっていたのが、「ジャズ・ビレッジ」という伝説のアナーキーな学校のようなバーだった。後に常連客になっていった中上健次や北野たけしも通っていた店でもある。安田末範はその店のチーフだった。中上健次のエッセイ集「破壊せよ、とアイラーは言った」には、「ジャズ・ビレ」の日々が語られていて、俺も親しくしていたヤスやカオルと共に安田チーフも登場している。そんな奴が俺らの劇団に入ってきて、日本一周公演をやったり、原宿のこれも伝説の店「ペニーレーン」(安田末範は店長だった)が修学旅行生の観光店にまで若年化した時、隣に大人のバー空間として作ったのが「ライムライト」という店で、再び俺は常連客になっていったというそんな関係だった。その安田末範が雇われ店長ではなくてオーナーとして、しかも原宿より圧倒的に密着している街新宿に出したことで、俺に対して少し鼻高々だった。ちょっと悔しかった。

 というのも84年は「レディ・ジェーン」の10年目で、二号店を出そうと考えていた矢先だったからだ。工面してデュオ・ライブを基本とした変則反則ライブも良いけれど、多少は広い演奏空間を獲得した自由な音楽の遊びが欲しかった。殆んど下北っ子になっていたので当然下北沢のあちこちの物件を捜した。ところが驚くことに、家賃が下北沢に似つかわしくない程高騰していた。下北にはしもきた価格というのがあって、気張っても渋谷や港区とは10%〜20%は下げないと成立しない。参考に渋谷、青山、西麻布と捜し廻って愕然とした。下北が同一家賃となっていたのだ。時の中曽根内閣の建築基本法改悪もあるが、マスコミにも煽られ、それに便乗した地主、家主、商店会の策略なのか、俺は下北沢に裏切られた思いで悲しくなり腹が立った。この辺りのことは11号で触れているので止めておくが、今再開発を進めようとしている道路建設や駅前地区計画の規模たるや、比べものにならないとはいえ、当時結構おぞましくて下北らしさを改変させる出来事だったのだ。そして2号店のために下北沢の物件に目を通すのを止めた。グラス1杯の料金の差別化設定もできない街ということもあったが、ライブハウスを作ろうと思った訳ではなく、ライブも演れる遊びの空間の構想は、まず他店の真似ではないお洒落でこだわりの、そうしたバー空間でなければならなかったので、家賃だけが高くなった〈若者の街〉下北沢で、危ない賭けをしようとは発想できなかった。

 さて、何処に行くべきなのか?そんな思いで意気揚揚とした安田末範に見送られて、「ライムライト」を出たのだった。