Flaneur, Rhum & Pop Culture

下北−NYコネクションの幻惑
[ZIPANGU NEWS vol.25]より
LADY JANE LOGO












 1983年暮れ突然ニューヨークに行った。年令も38歳を過ぎていてジャズに関わっている男ともあろうに、ニューヨークは未体験だった。ニューヨークは憧れの街だったがアメリカが嫌いだった。ジャズは好きだったがアメリカ人とはよく喧嘩していた。ともかく食わず嫌いだった。急遽決めたのは、親しい何人かの友人が年末に集中して、NYを誉め讃え未知をけなしたので反撥したせいだ。
 83年には、「レディ・ジェーン」のライブのラインナップは、2ギターにパーカッションとかピアノとサックスのデュオとか歪なフォーマットになっていて、楽器もヴァイオリン、チェロ、タブラ、篠笛などを混入していた。空間的な条件から苦肉の策が生み出したアイデンティティの発見と新しい音創りのジャズの提案だった。2月にやった橋本一子と渡辺香津美のピアノ・ギター・デュオの動員数91名は、どうやって入れたのか未だに謎の記録なのだ。それは結構魅力的だったので、発展させるためにもひと廻り広い空間を、つまり第二号店を物色し始めていた矢先でもあった。といってもNYの出店はさらさらなかった。
 12月3日、写真家の菅原光博が撮ったヴィレッジ・ヴァンガードの写真を額装で受け取り、加古隆(p)と吉野弘志(b)のレディ・ジェーン・ライブを蹴っぽり、<下北沢文化戦線>の一員だった評論家の伊藤俊治の結婚式を欠席して、冬のNYへ出掛けた。JFK空港には夜着いた。空港の公衆電話が半分は壊れていたのを知らない俺はモタモタして、マンハッタンのペンステーション近くのヒルトン・ホテルに着いたと思いきや、予約時間切れで追い出され、時計は12時を過ぎていた。ダウンタウンの格安ホテルを電話帳で捜して、恐る恐るタクシー飛ばしてどうにか辿り着く。未明部屋のスチームが故障して震えて起きた。初日の数々のきつい洗礼のお陰で、逆に根性が坐る。街は素晴しく興奮を誘った。ニューヨークは疲れ知らずに足かせる街だ。
 何日目かの夜、何日目というのはNY=ジャズと短絡させて駆けつける阿呆な日本人と一緒とは思ってないという意だが、先の額装写真を持ってヴィレッジ・ヴァンガードに行き、ボスのミスター・ライオンに届けると実に陽気に迎えてくれた。だが案の定いたいた観光名所巡りの日本人と南や西からやってきた別のアメリカ人たち。ステージでは忘れたが有名なジャズメンが見た目も露わに手抜きプレイをしていた。ライブは何処も期待はずれだった。“この国じゃジャズは輸出品で上得意が日本なのだ”と思いが走った。だから深夜は毎晩ブラッドレイのカウンターでバーボンを飲りながら人を待った。そこはヴィレッジ界隈で演奏を終えたビッグがよく顔を出す店だった。昼は東京より圧倒的に魅力ある街を歩き、酒場をやるにはリカーライセンス取得が高くつき、ライブをやるにはキャバレーライセンスが必須だとか勉強しつつ、紹介されたバーやクラブを訪ね、“何スクエアフィートで月何千ドルなら全然安いな”とか、お目出たいことに第二号店をニューヨークに出す気になっていた。それを自分で言い訳するなら、83年の下北沢は地価高騰が既に始まり、渋谷区港区を凌ぐ勢いのテナント料になっていたのだ。下北沢の2号店はいち早く見切りをつけると共に、そんな街づくりを進める商店街責任者と下北沢に俺は不信の念を抱き始めていた。