Flaneur, Rhum & Pop Culture

第二回下北沢音楽祭
[ZIPANGU NEWS vol.22]より
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 1979年9月1日、2日、本多劇場建設用地に於いて第一回下北沢音楽祭が圧倒的に成功裡に終り、金銭的には、子供達の音楽教育のため、世田谷区養護施設「日赤子供の家」にオルガンを2台寄付した他は、些かな打ち上げの飲食代(しかも実行委員の店ペーパームーンを借りての実費打ち上げ)のみだったが、それは一つの街の事件として世論を賑わせた。そんなことで、各方面から第二回目の開催が叫ばれていたが、その建設用地以外、やろうにもシモキタには纏まった収容力を持つ空間は何処にも無かった。で、第一回目以降工事着工に入って3年余を経た82年11月、本多劇場がいよいよ竣工になったのだった。実行委員のメンバー5人は即第二回目に向って準備を進め、11月下旬初会合をもって、大綱を決めた。

 83年2月24・25・26日の3日間と決めて、それぞれジャズ・ ディ、ブル−ス・ディ、ロック・ディとした。前回と違って、茂った草むしりをする必要もなければ瓦礫の撤去もなかった。仮設トイレの設置もなければ仮設ステージの必要もなかった。劇場にすべての設備が備え付けられていた。世田谷区はすんなりと後援を名乗り出て、四つの商店街の下北沢商店街連合会と、北沢料理飲食店組合なる存在を初めて知ったが、いとも簡単に続いた。しかも空地を只同然で借りるのとは訳が違った。機能を備えた劇場を借りたのだ。入場料を倍額の2200円にしたが、空地と収容力は8倍も違う。先の後援の認可は勿論有難いが、飯の種のためには金銭協力を策動せねば、幾ら全員ボランティアとはいえ成立しづらいものだった。

 二回目というのは、何につけても得てして失敗するケースかルーズダウンする傾向を腹んでいる。それは最も注意すべき重要点だ。それにしても本番まで残された時間は極端に短かった。初手から正味3ヶ月を切ってスタートしたのだから阿呆というしかない。年内の仕事納めも年明けの仕事初めも下北沢音楽祭の形づくりだった。NHK・FMサウンドストリートに放送権を売って、そのオンエアの承諾を得つつミュージシャンをブッキングした。ミューズ音楽院からはCP70を無償で借りつつ、リハーサル用にスタジオを開放させた。タバコのKOOL始め広告収入を数社決めて、ギャラも払えないのに黒田征太郎にイラストを急がせた。雑誌ぴあやアンアンに告知記事の掲載を頼み、FM東京に情報予告をお願いした。肉体労働が減った分知能が要ったが、それとて20数年前の素人の技だ。

 果たして、3日間の当日はそれぞれの色の違った豪華メンバーをステージに送り、カルメン・マキを大トリに、小堺一機と関根勤の名コンビによる司会で幕は降りた。プロのウェルメイドな音楽祭ばやりの昨今、その筋のノウハウを駆使して段取れば、何倍もスムーズに進行することは容易だろうが、結果は問わねばならないが、その過程を大事にすることから自然発生的に生まれるエネルギーが、記憶に残る集結力を生んで、心配した第二回目の落ち込みもなく第三回へと期待は高まったのだった。もののはずみで始めたとはいえ、ものの終わりは当然ものの始まりなのだから。