Flaneur, Rhum & Pop Culture

疎開先に残る奇妙な符丁と湖と
[ZIPANGU NEWS vol.150]より

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 5月30日、31日と長野の上田と軽井沢にリュート奏者高本一郎と楽旅に行った折り、JR東日本の新幹線内の雑誌『トランヴェール』が、「栃木・足利学校から始まる旅」という特集を組んでいた。その起源は不明だが、「一説によれば、隣接する鑁阿寺の境内に屋敷を構えていた足利義兼が、鎌倉時代に創建したといわれる」が、はっきりと分かっているのは、「永亨11(1439)年、関東管領で足利氏家臣の上杉憲実が、荒廃していた学校を再興した」とあるが、1338年に室町幕府を開いた足利尊氏から遡ること、約100年の歴史を持つ日本最古の学校・足利学校は、孔子廟が建ってるくらいで、儒学に重心を置いた教えだった。数年前に、足利ワインのココファーム・ワイナリーで、おおたか静流、黒田京子、山口ともの、ワイナリー・コンサートを企画したことのある足利は、生れ故郷佐野市の隣りだった。
 戦前、広島から上京した父が東京人になりきった頃、戦争が勃発して、空襲を逃れて疎開した先の栃木県田沼町(現・佐野市に合併)が俺の生地である。昭和27年、小学1年の時、東京に戻るか広島に帰るか迷った父が選んだ先が故郷の広島だった。俺は以来広島人になっていくのだが、広島の原爆被害の方が大きいに決まっているが、工場と邸宅を焼失した東京には、未練が落胆に勝てなかったのだ。
 1994年の夏の終わり、8月29、30日に何を思ったか42年振りに生れ故郷を訪ねた。新幹線で宇都宮まで行き、烏山線に乗り換えて終点の烏山で降りると、栃木県最東の川、那珂川へは歩いて行けた。落ち鮎の梁が仕掛けてある個所を探して川沿いを歩くと、雑作なく梁漁の場所は見つかった。竹で編んだ梁を上流に向けて斜めにしておくと、下ってくる鮎が勝手に筏状の梁に乗り上げてくる。それを待っていて捕まえるだけの技だ。同行させた10歳の娘、真琴がはしゃいで鮎と格闘していた。川原で塩焼きにしてそれをたらふく食べると、川遊びで食後の運動だ。それが済むと着替えて烏山線に乗って、宇都宮の手前の高根沢で下車すると、日も柔らかくなっていた。タクシーを捕まえて「どこでも良いから、鬼怒川温泉の適当な旅館に」と言うと、鬼怒川畔に立つ温泉旅館だった。川巡りが旅の本題だったから丁度良かったが、水面から3、40cm高いコンクリートの堰が凹凸に渡っていて、那珂川より広くて激しい流れだった。子連れには危険でそうそうに部屋に戻って湯を浴び夕飯にした。
 翌日、宇都宮まで出て在来線で小山で降り、小山ゆうえんちに連れて行くと、都会の遊園地慣れしている子供は興味示さず、近年東京に最も近い鮎釣りの川になった思川に流し目をくれながら、反省して両毛線に乗った。今でも蔵の街の風情を残す栃木市の舟運を支えていたのが巴波川だ。のろのろしてると肝腎の生地に行く時間がなくなると、また両毛線に乗って佐野で東武佐野線に乗り換え、念願の田沼駅に降りた。
 当然と言えば当然、俤のかけらもない駅前。当たり前か、42年経っていたのだ。45年前のある夜、『乙女の祈り』のピアノが聞こえた恐怖の森もなくなって、周辺が畑だらけだったわが家界隈は大倉庫街のゴーストタウンになっていた。物流よろしく元畑は東京の会社の倉庫に成り果てていた。駅の反対側を少し歩くと思い出有り余る秋山川だ。未就学児にとっては、夏の水遊びの唯一の川。両岸がコンクリートで護岸されていて、やはり昔の俤はなかったが、水の流れは変わらなかったので溜飲を下げた。駅に戻って何処か宿はないかと訊くと、一般旅館ではなくて商人宿が一軒だけあった。商人宿とは行商や出稼ぎの人夫たちが泊まる宿で、戦後49年のその年、旅行者が泊まる宿ではなかったが、今さら関係なく、故郷に泊まってみたかった。
 翌日、商人宿萬屋を出て、思川、巴波川、秋山川が合流する利根川水系の大河渡良瀬川を渡り、次いで渡良瀬遊水池を訪ねた。「足尾鉱毒事件による鉱害を沈殿させ無害化することを目的」の、栃木、群馬、埼玉、茨城の4県にまたがる貯水量2億立米の我が国最大の遊水池と説明しているが、別名谷中湖という。1906年、数年前から渡良瀬川が氾濫する度に、上流の足尾銅山の鉱毒は、作物を枯らし肥沃な農地を死滅させてきたが、県は悪辣な手を使い役立たずの谷中村を廃村に追い込んだ。村が沈んだ湖底には鉱毒と怨念が混ざりあった100年の汚泥が堆積しているのが見えた、気がした。
 そして去年2015年4月、従妹の宮田毬栄が『忘れられた詩人の伝記/父・大木淳夫の軌跡』を上梓した時、昭和18年12月、東京から田沼に疎開する件が出てきて、父母(俺の伯父伯母)と4人の兄妹(新彦、康栄、毬栄、章栄は従兄従姉)は、荷物が疎開家に届く間の2、3日、萬屋旅館に泊まってたのだそうだ。息を飲み込むような戦前から半世紀を越える愛惜と怨嗟の符丁の奇妙さを、今更ながら思う。