Flaneur, Rhum & Pop Culture

演劇の街にロボトミーが施工されるのか?!
[ZIPANGU NEWS vol.21]より
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 のっぺらとした時代だった1982年の暮れの11月下旬、今や下北沢の街を語る時に切り離せない<演劇の街>作りの中軸となった本多劇場が竣工した。建設プランが発表されてから、何らかの事情で数年間空地状態に置かれていたから、演劇界のみならず下北の街の人々にも多く待望論はあったはずだ。思えば、下北沢の街はその昔から演劇的な街だった。ジャズやロックや歌謡曲が街に溢れ、開店記念にはチンドン屋が賑やかしをやり、詩人や絵描きや写真家が路地を散策する街という意味に於いてだ。

 それで下北における劇場の歴史はというと、劇団京劇場が一番最初だったように記憶する。南口商店街のパチンコ屋の上が元々ダンスホールだった場所を、スタニスラフスキー・システムの研究会をやるために開設した稽古場で、77・8年だったはずだ。主宰の吉沢京夫は大島渚監督の京都大学の劇団仲間で、映画「日本の夜と霧」(60)で自治会委員長を演じていた。竹内純一郎(現銃一郎)率いた劇団斜光社の流れに借りて言えば、そこで「ドッペルゲンガー」や「檸檬」を上演し、80年にオープンしたわが「スーパーマーケット」では、斜光社改名秘法零番館が「あの大鴉さえも」を旗上げ公演した後、82年まで「夢見る力」など数本を上演した。時期を重ねるように秘法零番館は、81年にオープンしたザ・スズナリで「戸惑いの午後三時」を上演し、山崎哲の転位21は「うお伝説」を、生田萬のブリキの自発団は「ユービック」を上演した。又翌年少し離れた代沢に稽古場としてオープンした東演が劇場展開を始め、下北沢を巡る演劇状況は82年には既に活況の下地は作られていたのだ。

 通称<第三世代小劇場運動>が隆盛を見ていた時期、本多劇場の_落し公演は、唐十郎作、小林勝也演出、主演はカリスマ舞台女優の緑魔子を中に、当時人気上昇中の東京乾電池の柄本明と黒テントの清水絋治が両陣を張るといった、極めて“しもきた”ならではの取り合わせだった。こうした地域密着型傾向は、下北独自の特長といってよく、街の営みが演劇を邪魔せず演劇行為が街に溶け込んでいるかのように見えた。その後も劇場は増え続けて今日に至るが、小屋小屋が持つ特性を掴んで上演側が選んでいるので、街全体が映画館で言うところのシネマ・コンプレックス・ビルのようでもある。

 82年は<演劇の街・下北沢>になっていった分岐点だった。街と一体化している感を呈す演劇と街の文化関係ではあるが、ところがこの頃からチェーン店、特に居酒屋チェーン店が増大していった。この件は先号で触れたが、演劇→打上げ→大型居酒屋(チェーン店)の構図がある。今、行政の「区画街路」計画や「54号線」道路計画が強行されようとしていて、演劇と大型居酒屋が切っても切れない関係にあるなら、今後益々大型資本参入を許すことになり、個人店は今まで以上に排除されていく。かくて演劇と街の関係は文化ではなく経済関係に移行して行くのではないかという懸念がある。82年から変貌していった下北の街のこれ以上の変貌は忍びなく、何処かよその街へ移転計画を立てろと言ってもねぇ。