Flaneur, Rhum & Pop Culture
小京都・竹原物語り
[ZIPANGU NEWS vol.120]より
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 「ウイスキー・イヤーとなりそうな本年は、業界にとって大変重要な年となります」という手書き文を添えた年賀状を、スコッチ文化研究所の土屋守から戴き、はて何だろうと思っていたら、続いて広島の竹鶴酒造の杜氏・石川達也からの年賀に、「今秋からのNHK朝ドラ『マッサン』を楽しみにしています」とあって、テレビに疎い俺も「竹鶴政孝か!」とピンと来た。日本のウイスキーの父・竹鶴政孝とリタの夫婦の物語りなら興味はある。
 「2014年後期の朝ドラは『マッサン』竹鶴政孝がリタと共に歩んだ生涯とヒロイン!」と、暗澹とした世情から乖離したような広報案内が踊る。大正時代、大阪で過ごしていた造り酒屋の跡取りは、1918年、単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学んで、駆け落ちまがいの国際結婚をして帰国。摂津酒造を経て1923年、寿屋(現サントリー)に入社、山崎で本格的ウイスキーの国内製造を責任者として始めるが、思いは気高く<本当のウヰスキー>を求めて1934年、北海道の余市町に「ニッカ(大日本果汁株式会社)」を立ち上げた、人も羨む気力体力学力で進むべきロマンの道を歩んだ立志伝中の人だ。そして1940年、余市発最初のウイスキー「日果(ニッカ)ウヰスキー」1号が誕生した。ちなみに俺は学生時代からバーを開店してからも、揺るぎないニッカ党を自負している。
 1992年3月7日、羽田空港発8時45分の飛行機に乗るべく、出発ロビーに集まった。「ぴあ」の矢内廣、コピーライターの日暮真三夫妻、プロデューサーの立川直樹、トロン研究学者の坂村健など8、9名は、広島の竹原市にある竹鶴酒造に向った。新酒の利き酒と酒蔵見学だったが、率いるのが竹鶴政孝の孫の竹鶴孝太郎だったから、われらはVIP待遇で迎え入れられた。竹鶴政孝はこの江戸時代から続く由緒ある酒蔵を継ぐはずの跡取り息子だったのだ。竹原市は3万人を切るくらいの小さな町だが、文化財指定にされて<小京都>と呼ばれるほど石畳の道路から瓦の家並みまで景観が守られていて、しっとりとしたところなのだ。竹鶴という姓も家の裏の竹林に鶴が舞い降りていたのでついた名前だと言う。玄関から上がった居間には無造作に横山大観の衝立てが置いてあり、抹茶を立てて供される。ついでに言うと、大林監督の作品は好きでないが、尾道3部作とかいっている映画『転校生』で二人が転げ落ちるシーンは、側にある神社の階段であり町並みだ。文化財指定のそんな静謐な環境で醸されたまだ発酵中の新酒を利き酒する。名酒「秘伝」がピリリと舌に痛い刺激がたまらない。続いて中尾市長の設定してくれた食事会の前に、名だたる「誠鏡」を醸す社長でもある中尾酒造を探訪する。初の酒蔵見学で、片や手作り片や機械化の二つの酒蔵で、あまりの作り方の違いに驚く。この訪問をきっかけに「レディ・ジェーン」と「ロマーニッシェス・カフェ」用に「竹鶴・秘伝」送ってもらうようになって20年が過ぎた2011年だった。
 2011年3月11日、同じく新酒仕込み中の竹鶴酒造を再び訪ねた。奇しくも同じ羽田発8時45分の便。酒好きのゴールデン街「十月」のママ他3人と一色采と俺の小編成、1996年から竹鶴の杜氏になっていて、数年前に「レディ・ジェーン」を訪ねてくれて旧知だった石川達也が迎えてくれた。竹鶴寿夫社長とは20年振りの再会だったが、偶然にも、竹原市主催の竹鶴政孝展で講演の招待を受ける。酒蔵に戻って利き酒をやる。石川達也になって「小笹屋竹鶴」の純米が主だ。<酒は純米、燗ならなお良し>を譲らない信念の杜氏だ。夜になって宿の賀茂川別荘の迎えの車に乗る。午前中に訪ねた隣りの安芸津町の酒蔵・福久長で名を成す今田酒造の女社長兼杜氏の今田美穂も合流した。膳が並んだところで、二人の杜氏が持ち込んだ自慢の酒の数々を、講釈を受けつつ試飲する。石川達也は冷やと燗の飲み比べさせる男酒、対して、辛口にも関わらず飲み口がやさしい女酒。石川達也が今田美穂の酒に燗をしてみる。アレッ、旨いじゃないと女杜氏が言う。