Flaneur, Rhum & Pop Culture
お悔やみだらけの1991年、そして今年も。
[ZIPANGU NEWS vol.117]より
LADY JANE LOGO











 今日10月21日、〆切りを過ぎていて何を書こうかと焦っている。すると、今回で108号とは煩悩の数ではないか! 後1ヶ月もすれば日本人なら除夜の鐘を迎える。本当は煩悩はそんな数ではないらしいが、1991年を振り返っていると、突然我が母のことを思い出した。
 1991年の事をここ数ヶ月書いてきて物故人に多々触れた。暮れになりかかった11月9日にイブ・モンタンが死んだ。中学3年になってバイトで貯めた金でポータブルプレイヤーを買った時、ハリー・ベラフォンテの映画主題歌『日の当たる島』に続いて2枚目に買ったLPレコードがイブ・モンタンの『枯れ葉』とタイトルされたベスト盤だった。その中のパリ・コンミューンの渦中から生まれた曲『サクランボの実る頃』が特に好きだった。そのレコードは、ハリー・ベラフォンテのLP共々まだ手元にある。ロニー・ロリンズの『ドント・ストップ・ザ・カーニヴァル』を買ってジャズキチになっていったのは半年後の1961年の春だったが、ロリンズのそれは何処へやったのだろうか?
 6日後の15日、イギリスの映画監督トニー・リチャードソンが死んだ。彼の監督した『太陽の果てに青春を』(70)に主演したミック・ジャガーが最後の法廷シーンで、裁判長に向って指をさして「Go to Hell!」と言った映画があった。もっと後の『ホテル・ニューハンプシャー』(80)の寓話性も面白かった。だけど、何と言ってもジョン・オズボーン原作の『怒りをこめて振り返れ』を演出した後、映画化(59)もしたくらいイギリスの“アングリー・ヤングメン”運動の中軸だったリチャードソンの1番好きな映画は、シェラ・デラニー原作の『蜜の味』(61)とアラン・シリトー原作の『長距離ランナーの孤独』(62)だろう。ジャック・ケラワックの『路上』ほかアメリカン・ビートニクと共に、時代の空気を切り取って輝いていた青春の淡き光だ。
 1991年の年の始め、ブッシュが湾岸戦争を勃発させて1月も経たない2月8日、突然母が自宅で倒れた。3日間起きようと抗って家中を這いずり回り、あちこち糞尿だらけになったが、その後たちまち寝たきり老人になった。6日後、都立広尾病院のベッドが空いて入院できたが、ホッとする間もなく、母は老人性骨粗鬆症とアルツハイマーの併発なので、治療患者と同様には扱えないので1ヶ月以内に転院先を見つけてくれと言うことになって、何と西新井の病院に転院した。世田谷から荒川の先までは少ししんどかったが、綺麗で親切な病院だった。ところが夏のある日、病院から電話があって、何ごとなのかと不安視すると、体力をつけた母は、夜中に決まってベッドから立ち上がって意味不明の嬌声を発して、同室の人からは勿論隣室の患者にも迷惑を掛けているので、患者同士の関係からも母のためにも入院をそこで続ける訳にいかなくなった。「老人専門の病院か老人介護施設を探してもらうんですね」ということになり、同じ世田谷の桜上水に老人専門の病院を見つけて、又またそこに転院となった。ところがその後、あんなに元気になったはずの母の病状は急激に衰えて、秋になると見舞う人の認知も出来なくなり、自分の子どもや孫さえ分からなくなっていた。認知できたのは生活を共にしていた俺と妻くらいがようやくだったと思う。そう思っているだけだったかも知れない。12月中旬、病院の担当医から緊急電話があって、年を越した1月28日早朝母は死んだ。明治41年2月10生まれ、7回り目の誕生日を直前にした享年83歳だった。
 1991年から約1年を経て、肩の荷を下ろした訳だが、七七忌も経たない3月7日、ぴあの矢内廣に誘われて、広島市より東の竹原市にある竹鶴酒造を見学に出掛けた。広島空港に降りると車であっという間に酒蔵についた。竹鶴政孝の孫の竹鶴孝太郎率いる8名ほどの一行は、江戸から続く酒蔵体験に悦に入った。宿の賀茂川別荘でやんやの宴会の翌日は広島市へ。この辺が俺は抜かりがない。母と住んでいたふたつの家を始め、少なくなった親戚の伯母を訪ねて訃報を届けた。夜は旧友を呼び出して痛飲、ホテルのベッドに泥縄で倒れ込んだ翌日は、一挙に形を付けるべく、下関と門司の伯父伯母従兄を訪ねたのだった。