Flaneur, Rhum & Pop Culture
恋いこがれたのよ,あの頃は、いえ今でも。
[ZIPANGU NEWS vol.116]より
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 ウテ・レンパーというドイツが生んだ歌姫をご存知だろうか?
 1991年、秋の気配を濃厚にした10月31日に彼女は初来日した。妻を誘って今はもう忘れたアムラックスというホールで、ステージのウテ・レンパーは大柄な肢体を妖艶にピアノに凭れかけたり座ったりして数々のクルト・ワイル・ソングを歌った。<現代最高のブレヒト歌手>の異名以上に眩しくて、「信じられないほどの魅力。若き日のディートリッヒを思わせるカリスマ性」(ニューヨーク・タイムズ)とまで言われるドイッチェ・デカダンスを初体験した。初体験と言ったが、実はそうではなくて、当記事92号でも触れたことだが少々いい加減な自慢話になる。
 1990年7月21日に、ベルリンの壁が壊れた記念のコンサート『ザ・ウォール』が、ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズの指揮で行なわれた。出演者はジョニ・ミッチェルやシンディ・ローパー、ザ・バンドやアルバート・フィニーなど100名ちかくいた。心のベルリーナを気どっていた俺は壁が割れて以後、ベルリン行きを焦っていたのだが、『ザ・ウォール』の企画を当初から知っていたのでこの日まで我慢していたのだ。ところが情報が初手から錯綜していたとは言え、行って見るとほぼ何も知らなかったことが分かった。ディランやスプリングスティーン、ミックやボノが出なくなって、日本のジャーナリズムが全面的に手を引いたことも、俺にとっては情報を判断する材料になっていたからだ。<ステージの間口170m、壁に模した発泡スチロールの高さ25m、演奏時間12時間、観客30万人>?夜中の3時に終わりクタクタと興奮から一眠りした後の遅い朝、総てベルリンの新聞で知ったことだ。
 そのステージで最初と最後に登場して目を引いていたのがウテ・レンパーだった。それも翌日の新聞情報からだった。何せ俺にとっては彼女は無名だったのに加え、ステージが何処かも分からず出演者はあらかじめ不明だったからだ。だがウテ・レンパーの名前は強く脳裡に刻まれることになった。
 話しは変わるが、冒頭に時間を戻して1991年、ピーター・グリーナウエイ監督の『プロスペローの本』の試写会があった。W・シェークスピアの最後の戯曲『テンペスト』を翻案した映画で、絶海の孤島に流されたプロシペロー=グリーナウェイが24の本から魔法を得て復讐に立ち上がる話を、グリーナウェイらしい原色の衒学趣味とマイケル・ナイマンのミニマル音楽で描いた荘厳な物語りだ。10月31日の1ヶ月弱前の10月4日の試写会は、配給のヘラルドエースが口コミだけで知らされた客を集めたそれだった。会場はシアターコクーンでも時間が午前8時30分からなどという試写会があろうはずもない。妖しいことは映画が始まるとすぐに分かった。ハイビジョンで録った画面には男も女も全員男根も女陰もむき出しの丸裸なのだ。検閲逃れの試写会だったが作者の意を汲もうとすれば低文化国日本ではしかたがない。なんと!この『プロスペローの本』にウテ・レンパーが出ていたのだ。残念ながらプロスペローと同じく、大地の神シーリーズは豪華な衣服を身に纏っていて,スッポンポンは下等な人間だけというのが監督の解釈なのだ。
 11月3日、ウテ・レンパーの2日目、冒頭の会場の音響に不満もあったし、今度パリの国営放送局で働らいていて里帰りしていた故木立玲子を誘って、試写会と偶然同じシアター・コクーンに再び出掛けた。「マック・ザ・ナイフ」「スラバヤ・ジョニー」「アラバマ・ソング」「ユウカリ・タンゴ」が、ミュージカル風というか、まるで1920年代の退廃と虚栄のワイマール時代と錯覚するようなバーレスクなキャバレットを出現させた。こんなステージを味わう時ほど、連れを選ぶのと,演奏後に何処に行こうかと迷ってしまうのだが、木立玲子は俺以上に感動して俺の迷いをたちどころに払拭した。
 翌1992年、その春に出した『マイケル・ナイマン・ソングブック』と『バラ色の人生〜ピアフとディートリッヒに捧げる』の来日記念版を抱えて暮れに再来日した。こうして1996年まで続いた逢瀬も途絶えて、2006年以来だから、7年以上会ってないことになる。
 <ガルボの頬>といわれる美貌、<ディートリッヒの脚線美>といわれる姿態、ドイツ語、英語、フランス語使い分ける頭脳の50歳が恋しい。