Flaneur, Rhum & Pop Culture

フュージョンの世で見つけた秘かな愉しみ
[ZIPANGU NEWS vol.17]より
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 1980年に入ってからは、先号で書いたように「レディ・ジェーン」と「スーパーマーケット」の二本立て生活になり、特に後者の方は芝居が入らない限り毎日がライブなので、日々のブッキングに追われた。
 名前が名前だけに何でも取り入れるをモットーとしていたので、勢い流行もの60%に対して、主張もの40%程の割合になっていた。早くからアメリカでフュージョン音楽を立ち上げたボブジェームスやデイブ・グルーシンの影響が日本でも大で巷のあちこちに流れていた。
 音楽的に聞き逃せないのは、渡辺香津美の「トチカ」や「キリン」、清水靖晃の「マライヤ」等だったが、凄いと思ってもそれ程好きではなく、ウェーザー・リポートの衝撃とマイルスデイビスの動向を除いて、精神的には避けていた。
 肝腎なのはジャズもロック(テクノ旋風だった)も下火で、世界を席捲したレゲエの王者ボブ・マーリーも81年に死んだ。今や教祖的なキップ・ハンラハンの声をちらほら聞いたり、アストル・ピアソラの偉大な噂を聞いたりしたのもこの頃だった。ロックもそうだが、ジャズのトランジット・エイジだった。この自らが展開するブッキングの現実と内的志向のずれに矛盾を感じ始めていた。

 下北沢でライブの先鞭を着けたのは、ロックの「ロフト」とジャズの「レディ・ジェーン」で、80年にジャズの「T5」と「スーパーマーケット」が新たに加わって、たった四軒だった(「香多里亭」という特殊な場もあったが)。
 矛盾といっても個人のそれで、「スーパーマーケット」はいわば下北沢の文化シーンを代表するライブ空間としての立場が続いた。そのリアクションという訳ではなかったが、それまでのトリオとかカルテットとか、狭い店内にクインテットとか、基本フォーマットでライブ演奏をやってきていた「レディ・ジェーン」のライブ方針を変えようと考え始めた。相談相手は当時右腕スタッフで現在評論家のトマトこと大場正明だった。

 変則デュオや変則トリオの実験的試みは81年の6月頃から始まった。発想は店内が狭い、変わったメニューで独自性を出したかったの二点で、留意点は相性だった。勿論音楽的にも人間的にも。82年になってその試みは頻度を上げていくのだが、早くから名指しピックアップした高瀬アキと橋本一子を初め、井野信義、吉沢元治、高田みどり、森山威男、古澤良治郎、坂田明、清水靖晃、井上敬三、梅津和時、渡辺香津美、斉藤ネコ、大塚まさじに三上寛たちだった。暮れには近藤等則もやって来た。

 この過酷でミュージシャン泣かせのデュオ・ラインナップは駆け引きなしである訳だから、噂と評判を呼び、新宿ピットイン始め他所のプロデューサーに踏襲されることとなったが、「レディ・ジェーン」小状況としては愉しい驚嘆の日々であり、ジャズ大状況としては先に書いた通りであり、その鬱憤の晴らしようは個人的には快哉そのものだった。

 暮れには「本多劇場」が唐十郎の「秘密の花園」で柿落し、下北沢っ子は嬉々として皆気色ばんだが、それとはまったく別に街並みと人心の変化に、俺は下北沢に少し不信感を抱き始めていた。それは街を取り巻く下北バブルの前兆だった。