Flaneur, Rhum & Pop Culture

『ユーブ・ガッタ・フレンド』シモキタが震えた二日間
[ZIPANGU NEWS vol.10]より
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 そうして一九七九年九月一日、二日第一回下北沢音楽祭が開かれた。シモキタの街の駅前、当時赤テントの「状況劇場」や黒テントの「センター'68・'69」が年一回公演をやる程度の他、ほったらかしの八百坪の空地を、現在の本多劇場のオーナー本多一夫氏が快く貸してくれた空間だった。

 数年前のことになるが、NHKの「趣味悠悠」という番組で、ここ三ヶ月程「谷川晃一の自由デッサン塾」と称して、ペン画から木炭画、パステル画、黒インク画と遊んでいるのをたまに見ていて、彼の昔のある発言を思い出した。
 曰く、「開け放った窓からロック音楽が飛び込んできたのにはびっくりした。やはりここはシモキタだなあ、というのが実感だった。この街はロックやニュー・エイジ世代が動かしているのがよく判った。時代が地すべり現象を起している感じだ」一九七九年九月の「第一回下北沢音楽祭」の感想を求められた下北沢住いの彼が、枝川公一のルポに答えた言葉だった。

 企画した俺たちが<時代の地すべり現象>を発信した会場は、下北のド真中だが、土堤上を走る井の頭線のホームの長さ程、渋谷寄りに位置した空地だった。
 一日目、午後二時に始まったプログラムも進み、晩夏の残照が夕闇にとって替り、照明浮き出されたステージでは、山本剛をバックに安田南が歌っていた。
 渋谷駅発の一本の電車が、ホーム手前の土堤上で止まった。南は吃驚りしたと思うが、観客も気づいて電車を見上げると、乗客も全開の窓から身をのりだしてステージを観ている。
 俺は「運転手がジャズ好きだったんじゃないか」と、当時、マスコミ取材に平静を装って答えておいたが、内心は違っていて、今でも不思議に思う。
 それ以降、電車がことごとく徐行したのは、井の頭線の運転手組合?がしめし合わせた<乗客サービス>と共に、音楽のために少しでも車輌の軋轢音を弱めてやろうとしてくれた洒落っ気だったと思っている。
 先の谷川晃一の発言は、たまたまその徐行車に乗り合わせた上のことだったらしい。

 そんな空気感に居心地良さを思ったのか、下北沢で下車した客が、サーカスに誘われるかのように、―そういえば、『サーカスにはピエロが』を、二日目に出演した石田長生が歌ってたな―当日券を求めて会場に詰めかけたりもした。

 阿波踊りや盆踊り、の如く、商店街の中の野外コンサートなど、それ迄聞いたことはなかったし、それ以降も知らない。ましてや、その横上を電車が走っているとは!
 シモキタが一番シモキタらしい光景の出現だったと、手前みそで思っている。亀渕友香が『ユーブ・ガッタ・フレンド』を歌い、一日目を終えた。