Flaneur, Rhum & Pop Culture

一九七九年、手づくりの日々
[ZIPANGU NEWS vol.9]より
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 一九七九年の年明けは、下北沢の酒場のオーナー四人とライブハウスのオーナー一人の五人の会合で始まった。
 題して「下北沢音楽祭実行委員会準備会」なる素人の企画会議は三日に一度のペースで続いた。

 当時からマスコミは、下北沢を吉祥寺と比較して“君はどっち派か、二大若者の街”みたいな切り口で煽り始めていた。
 だが大型資本を投入して造られた吉祥寺に対して、自給自足タウンというか、地元の人たちが地元の人たちを相手にして商売していた街だった。山の手の住宅街と下町の商店街が背中合わせでくっついていて、年寄りと若者は混然一体となってあつ苦しい程融合していた。マスコミの紋切り型口上には、年輩も若者もうんざりしていた。
 その影響は、一日の乗降客数が既に十四万人を越える現象を生み、街は急速度に様がわりしようとしていた。

 そこで、藤圭子の「夢は夜ひらく」をもじって、“明日はジョージかシモキタか”と歌っていた地方出身(広島)のシモキタ派の俺は、下北沢が文化発信する下北沢の地域密着型音楽祭を企画提案しようと、地元のシモキタッ子と組んで動き出したのだった。
 ああ言う、こう言う、実行委員のそれぞれの素人意見が飛びかって前に進まない。それでも、広告代理店やプロの企画業者を入れよう等という発想は皆無だった。そのうち、世田谷区の後援が正式に取れると、下北沢の四つの商店会も動き始めた。

 日時は九月一日、二日の昼から夜まで。場所は当時の本多劇場建設予定地。料金は前売り1000円、当日1200円と決めた。
 ところが、毎年九月の第一土曜・日曜は伝統ある地域密着型の北澤八幡神社の秋祭りで、俺たちは祭りの中で祭りをやるのも良いではないか、秋祭りに助けられて祭りをやろうと思い、その日に敢えてぶつけたのだが、北澤八幡様と各睦会(御興会)と商店会が祭りを一週ずらしてしまい、音楽祭に譲る決定をしたのだ。
 この先方の決定は俺たち実行委員のメンバーに、相当の緊張と改ためて決意を投げかけた。

 八月に入った。空地は八百坪と広大だったが、後ろ半分は更地で雑草が生茂り、家屋解体の残骸がそれなりに残っていた。ボランティア諸君と実行委員は土方に早変り、二週間掛りで除去すると、世田谷区から簡易トイレやテントを借り出し搬入した。
 世田谷区後援といっても、車の手配から運搬から一切当事者仕事で、借り賃が只の他は、ポスターを町内各所の区の掲示板に貼ってくれる程だと初めて知った。照明、音響のイントレを組み、メイン・ステージを組む大作業、テントを張って本部、楽屋、医療救護所を設ける。
 追い込みの時期になると商店会青年部諸君を始め、各方面から援助の手が届くようになった。

 マスコミも音楽ジャーナリズムだけでなく、週刊誌、新聞も告知記事として取り上げ、ある誌曰く、「新宿音楽祭、公園通り音楽祭など盛んだが、どれもマスコミやレコード会社がバックについている。原宿、吉祥寺をしのぐヤングの街となった下北沢にふさわしい、イロのつかない音楽祭」と、<善意>に飛びつくマスコミが動いた。
 そして、イロのついた音楽満載の当日を迎えたのだった。