Flaneur, Rhum & Pop Culture
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『「第二の太陽だ!」とアイゼンハワーと中曽根は不純同性交遊した
[季刊・映画芸術452号より]

VOL.27

 映画に行く前に、トラウマのように引っかかってしまう事がある。
 戦後七十年である。敗戦(終戦ではない!))の年から七十年経って、世間ではそうなのかも知れない。だが〈戦後〉七十年という言い方にケチを付けると、虚妄というしかない。俺は戦後評論が嫌いだった。中野好夫が文藝春秋誌上で書いた「もはや戦後ではない」を経済白書が転用して述べたのは、敗戦から十一年しか経たない昭和三十一年のことだった。又、同年評論家の大宅壮一が「一億総白痴化」と言った連中には、正しく〈戦後〉だったのだろうが、俺は一億人の中に入るにはちょっと幼すぎたという言い訳を持っている。逆の意味では今でも〈戦後〉はあり得ず、つまり〈戦時下〉とも言える。即ち昭和三十一年に原子力発電三法を施行した政府は、翌年茨城県東海村に原子炉の火を点けた。ヒロシマ少年だった者から言わせてもらうと、ざっと次のような経緯だった。
 旧ソ連のフルシチョフ首相による、ヒロシマ・ナガサキの核の残虐性を猛烈な非難攻撃を受けた米のアイゼンハワー大統領は、〈核の平和利用〉を唱い始めた。米は裏でヒロシマ・ナガサキの数百倍強大な水爆実験を行いながら、国連で〈核の平和利用〉は大歓迎された。ところが一九五四年、ビキニ環礁で第五福竜丸が死の灰を浴びて、日本人が三度目の被曝をすると世界に知れ渡り、国内で原水爆禁止運動が広がった。恐れたアメリカはまずシドニー・イエーツ民主党下院議員が「原爆を投下した償いとして、広島に原子力発電所を設置する」建設法案を提出した。さすがに広島では実現に至らず東海村に場を移した。だが、日本側にも〈平和利用〉を受け入れる議員たちがいて、改進党の中曽根康弘を中軸として一九五五年六月、日米原子力協定を調印して「原子力平和利用博覧会博覧会」の開催を画策し始めたのだった。
 去年の十月十八日にNHKが放送したドキュメンタリー映像「ヒロシマ、爆心地の原子力平和利用博覧会」は、俺には強烈な衝撃だった。原子力三法を施行した同年の昭和三十一年に「広島・原子力平和利用博覧会」という一大イベントが行われた。別のエッセイに書いた拙稿を転載するとこんなことだった。「次代のエネルギー開発として、原子力の力と重要性と正当性を世界にアピールするために、ヒロシマの地を選んだ知略だった。原爆を落とした側の広島アメリカ文化センターや、後に続く原水爆開発の研究のために、被爆者の年齢、性別、距離、地形などによるそれぞれの障害度をデータ化した専門機関ABCC(原爆障害調査委員会)が強引にやったのなら理屈は通るだろうが、そしてペンタゴン主導で行われたのは簡単な推理だが、主催が広島県、広島市、広島大学、中国新聞社などだったことは、一体何を語っているのだろうか? 五月二十七日から六月十七日まで、会場の原爆資料館から一切の〈叫びと沈黙〉の原爆の爪痕は排除されて、明るい希望に満ちた〈原子力平和利用〉に丸まる利用されたのだ」と。厖大な空き地が目立つ広島の復興は、どこを掘り起こしても人骨がボロボロ出てきた頃、約三週間の開催中、訪れた人十一万人は原爆資料館の一年間の来館者に匹敵する数だった。
 現在何十ヶ所と増設されて、3・11の福島原発だった訳で、そんな国に〈戦後七十年〉などという言い方は、何と欺瞞に満ちているだろうか。
 塚本晋也監督の新作『野火』(大岡昇平原作)を試写会で見た。第二次世界大戦末期、フィリピンのレイテ島で、結核を患った一等兵が野戦病院からも部隊からも排除されて、熱帯密林の中を空腹を抱えて逃避行する極限状況を描いている。〈体感型作品〉と銘打つように、砲撃、銃弾の音は五体を震撼させて、飛び散る肉片や蛆のわく屍体の映像は感情を超えて過激だ。「(俺が先に死んだら)お前は絶対、俺を喰うはずだ」などと交わす会話も、非日常化したリアルさで迫ってきて、その凄まじい生命力が、戦争の狂気を呼び起こす。
 開演前に監督が挨拶をした。「二十年以上前から企画していた映画でしたが、お金もなくて小さな自主映画になってしまった。だけど、今の動きを見ていると、戦争の気配が感じられて、今やるしかないと思った」と言い切るように、他の分野ではない、映画なればこその自由性に富んだ作品だった。
 そのような近似値体験の地から、戦後復員してきて〈戦後〉を暮らした生き残りの元兵隊たちが、あの敗戦の日の底抜けの青空を仰いだだけで、何百万人の同胞の死を乗り越えて、キャタピラーになってしまった心を乗り越えて、呑気に「もはや戦後ではない」などと言って、三丁目や一丁目一番地の日常を生きていけるなどとは決して思えない。
 脚本家荒井晴彦の監督二作目『この国の空』(高井有一・谷崎潤一郎賞受賞作原作)を観た。三月十日の東京大空襲も過ぎた、敗戦間近の空襲下の日常をホームドラマとして描いている。妻子を疎開させて一人住まいする隣家の銀行支店長に恋をする、母と二人暮らしの婚期を迎えた娘の恋物語りは、あえて言えば小津映画のようだった。戦争末期の空襲の時代、B29は再三空を襲って来るが、戦時下でも戦争を描かないで、むしろ逆理の日常、日々の食事、不倫の淡い恋、家庭の崩壊の気配をやさしさと残酷で描いている、という意味において、状況ではなく人間を描くという意味において、小津映画の映画的意志に繋がるなと思った。そして映画は終幕、敗戦の日の前夜、(奥さんが帰って来ることから)「里子は、私の『戦争』がこれから始まるのだ、と思った」と出てきた字幕と、卓袱台を掃除する里子のシーンに背負わされた、明日来る戦後を生きる意思にピーカンの青空はない。それと俺のある記憶部分を掻き回した、茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」の出現だ。昔七十年代のいつか、松本清張原作に魅かれてドラマ「球形の荒野」を観た時、終幕海辺のシーンで、父娘と互いに名乗れない戦争の傷を背負った娘役の栗原小巻が突如、この反戦詩「わたしが一番きれいだったとき 街街はがらがらと崩れていって……」を、父親役の滝沢修に向かって、或いは一人勝手に延々と朗読するシーンで、微動だに出来なくなったことを思い出した。好きな松本清張原作をこんなにへっぴり腰にするのかと、腹立たしい思いで観ていたはずなのに、そこにきて洪水のように言葉が雪崩込んで来たのだ。四十年経った今、その同詩が『この国の空』で再び襲って来た。そして泣くのだ。昔は映画館を出ても、余韻を残す映画は五万とあったが、その余韻を多々残す今時数少ない映画だった。
 〈戦後〉といった時、大いなる矛盾を抱えて悲鳴を上げて現存しているのがオキナワだ。二つのドキュメンタリー映画『沖縄 うりずんの雨』(ジャン・ユンカーマン監督)と、『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』(三上智恵監督)の、良し悪しを越えた迫力は、ドキュメンタリーのドキュメンタリーたる所以だ。片や米のペリー提督が開港を迫った一八五三年と一八五四年の琉米修好条約以来、米軍との地上戦を経て、米帝と日帝の売国同士の闇取り引きに終わった「沖縄返還」の虚偽と裏切りを描いている。片や今なお、辺野古基地で沖縄を〈捨て石〉とする日本国家の欺瞞を描いて、一日たりとも安穏はない重すぎる歴史的作品だ。元ヒロシマ少年の心にぐさりと突き刺さるが、「忘却とは神の与えた恩寵で、記憶とは神の与えた罰である」などという文句が同時にちらつき始めたところで、丁度誌面が無くなってきた。こうしてオキナワにはいつも踏み込めないのだが、自戒を込めようとすると、いつか「レディ・ジェーン」で歌った佐渡山豊の歌が、空耳となって聞こえてくるではないか。

 “唐ぬ ( ) から 大和ぬ世
 大和ぬ世から アメリカ世
 アメリカ世から
 また大和ぬ世ひるまさ変わゆる
 くぬ 沖縄 ( ウチナー )
「ドゥチュイムニイ=独り言」