Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












倍音は身体の音楽を視ながら
[季刊・映画芸術449号より]

VOL.24

 当「映画芸術」誌上で、連載タイトルこそ今とは違う「目と耳のモンタージュ」だったが、TVドラマの演出家だった佐々木昭一郎に関した拙稿を書いたことがある。二〇〇六年にBS日本映画専門チャンネルで、佐々木昭一郎特集全十六作品が放送されたので、その直後の号だった。NHKの演出家だった彼が最後に撮ったドラマは、一九九五年「八月の叫び」だったから、それから十一年は経っていた。NHKを辞めて十九年後の今年、初の劇映画『ミンヨン 倍音の法則』を撮って七十八歳でブラウン管からスクリーンに復活した。「ササキショウイチロウ」と聞けば、即座に条件反射していた俺にとっては、通り過ぎれないことだった。
 二〇〇四年に早稲田大学で「夢の島少女」('74)を上映した時、韓国から留学中だったミンヨンと出会い、彼女を主役にして十年越しに完成した佐々木昭一郎の映画が、『ミンヨン 倍音の法則』という、音楽或は音に導かれて旅を続ける物語りだ。通訳の勉強で日本に行く妹を追いかけるように、小説「倍音の法則」に取り組むミンヨンは、幼少の頃妹と共に暮らした日本を旅する。手には祖母の親友だった佐々木すえ子の家族の古ぼけた写真が一枚と、心にモーツアルトの音楽が鳴り響いていた。
 川や水や木の緑や青い空や赤い炎に画面が満たされた佐々木昭一郎の世界は、デビュー作の「マザー」('71)から一貫としてあり、「母さんの顏は見なかった。今でも見たことないよ」という少年のつぶやきは、戦前に疎開先で過ごした佐々木昭一郎その人の、体験から来るイメージであり、幻想であり、共感であり、事実を越えた真実の記憶であり、少年期の夢なのだ。「さすらい」('71)の少年も「一歳、母の子守唄が遠ざかるのを聞いた。二歳の時、兄さんの背中で口笛を聞いた。三つの時、学園のファーザーの賛美歌を聞いていた」。渋谷の神泉の駅で十三歳の栗田裕美と会い、ギター狂いの友川かずきの「捨てたもんじゃない」を聞き、三沢基地の笠井紀美子の「How Can I Live」を聞いて放浪の主人公はまるで虞犯少年で、俺の別名だったかも知れない。『ミンヨン 倍音の法則』のミンヨンも、東京の路地でユウと言う浮浪少年に、「お母さん!」と足元にすがられる。「夢の島少女」でヘドロの川に浮かんでいた主役の中尾幸世は、意識不明の夢の中で、失くしてしまった一番大切なものを探している。浴衣を着た少女・中尾幸世は、佐々木昭一郎の聖女として成長し、「四季・ユートピアノ」('80)では調律師となって、音叉を共振させて全国を巡る。詩情豊かな作品の要素の多くが、音楽や音と、それらが響き合う街や川や海や野や人であるのだが、そのこだわりは特定の音楽や音、街や川や海や野や人でなければならない。今を紡ぐ物語りの根底には、常に佐々木昭一郎自身の幼少期の記憶が乱反射して、現実と過去ばかりか、作品間や個々の登場人物の心や想像に棲み込んで、出て行かないのだ。時制や整合性や論理は飛躍していて、それらを追っても無駄なこと、だが確実に観る者に取り憑くのは、特定の風景とこだわりの記憶がリフレインして画面をしつこく飛び交うからだ。右脳ドラマとも言えるが、身体の映画のようでもある。脳を切開して無垢な表現に追い込む演出法に、何故か、野口体操を編み出した故野口三十三が浮かんでくる。
 佐々木昭一郎がラジオドラマからテレビドラマに移った一九六八年頃、俺は劇団の身体運動の一貫で、野口三十三の体操指導を受けていた。
 「『直立歩行をすることによって、解放され自由になった手で、労働を始めたことこそ、脳の発達をうながしたのだ』(エンゲルス)と考えている。
 このことは<脳が先か、直立が先か>という問題であり<観念が先か、物質が先か>という問題でもあり、精神と肉体の本質に迫る問題でもある」
 「実は、性格も知能も感情も、その動きの創造も、何を望むかの判断や意思さえも、それらの働きのすべてがからだの働きそのものなのである」
 「人間の記憶・思考・判断・推理などの精神作用といわれるほとんどすべてが意識の世界のできごとであるために、人間の動きそのものが、すべて意識できるかのように思いこみがちである。意識で捉えることのできる事柄は、きわめてかぎられた一部の現象だけで、意識にのぼらないままの、永久にその主人にさえ認められないままの働きこそ、むしろ、生きることにとっての基本能力ではないかと思われてならない」
(昭和四十三年十月東京芸術大学音楽学部・美術学部助教授 野口三十三)
 佐々木昭一郎の脚本には大きく空けた余白があるそうだ。ほぼ決まって素人の出演者は、役柄に規定された状況にありながら、その日その時の撮影に瞬間発動してその余白に飛び込む時、おのずと役と自身の距離は崩れる、或は同一化する。カメラも自立して脚本から消えて行く。物語りは途絶えて散乱するがフィルムには別の<美>が残る。監督の演出はそれを無理強いして、決して創り上げず、その星のかけらを編集で拾い集める。 渋谷の交差点に立ったミンヨンは、佐々木すえ子になることを夢見て戦前の苛酷な時代を生きる決意をする。「軍部を告発する」記事を書いたすえ子の夫は、満州に渡ったはずだが、原子力発電所設置を巡る闇を取材中に暗殺された。「あなたの書いた一番好きな記事は『大作曲家モーツアルトは美しいハーモニーを作るために命を賭けた』」。川上から流れてきた大量の『紅い花』('75)と、手に握られていた「DIVIDE ET IMPERA/国を分断し戦争をさせろ」のラテン語のメモ用紙。そして、ラジオ放送の「『前線に送る夕べ』です。『戦地の兵隊さん、一日も早く米英を滅ぼし、あの憎いチャーチルとルーズベルトの首を取ってきて下さい。』世田谷区立代沢国民学校二年二組佐々木昭君からのお手紙でした」のシーンでわれに返った。そうだったのか! ここはドラマ仕立てのドキュメントだ。ミンヨンが憧れる祖母の親友だったすえ子は、佐々木昭一郎の母親で、写真は当時の佐々木家の本物の写真だったのだ。ミンヨンが尋ねた代沢三の一八六の武家造りの邸宅は未だ残っているのだろうか、ロケ用なのか? 有れば北沢川遊歩道の一角だ。その邸宅でミンヨンは佐々木すえ子のままだ。「歌いたいわ!」歌いながら一九四五年七月下旬、西に向って代沢の家を出た。八月になって前方の空が真っ赤になった。広島だった。更に西に歩いた。前方の空が真っ赤になった。長崎だった。
 音楽の国際ティーチインの場面で。指揮者で出演している武藤英明はアメリカの代表に言う。「あなたの国は何でも数字に置き換えて解析する。ところが原子爆弾の音に関するデータはひとつもない!」と。そしてミンヨンは「世界の政治家は核廃絶と言いながら、原爆の上にあぐらをかいている」と。『ミンヨン 倍音の法則』は、過去の作品群から一貫して、より過剰なほどのエピソードを散弾させて、詩情の世界を活写した佐々木昭一郎の真骨頂を見せた私映画だ。只、政治的主張が目立つのは、それほど先行き暗い世相故か。
 佐々木昭一郎様、俺はあなたが七〇年代半ばから八〇年代にかけて、キープボトルして通い続けてくれたジャズバー「レディ・ジェーン」の店主です。そして、当時は有りませんが、映画では「謀略放送・マジックアワーの東京ジェーン」となってましたが、米軍向けラジオ<ゼロアワー>の戸栗郁子こと「東京ローズ」というカクテルが二十五年前から用意してあります。データ分析してない「原爆音を制限しろ」と、爆音で地球を吹く演奏を続けている近藤等則が、昔出した曲「東京ローズ」に因んで作ったオリジナル・カクテルです。また戦前からそんなに近くに住んでらしたとはつゆ知らず。広島から一九六四年上京、四十八年いる下北沢なら、五百回は通り過ぎていることと思います。
 神田駅ガード下で、写真機を抱えた老人がすえ子に、ミンヨンに言った。「あなたの写真を録らせて下さい。一九四五年夏、私はあなたを三十センチのところで見ていました。歩いても歩いても道遠く、わが記憶『ジュピター』如く」