Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












〈成長〉が国を滅ぼし、下北を滅ぼし、「オロ」を滅ぼす。
[季刊・映画芸術440号より]

VOL.15
 昭和二十五年(1950年)、敗戦後の混乱から抜け出した日本は戦後復興に向かっていた。上手いもの、美味しいもの、綺麗なものを追い求めることに、金と経済とだけを生むことにひたすら汗してきた。その年朝鮮戦争が勃発して、米軍が落とした特需で日本は大儲けした。あれほど国に騙されたにも関わらず、たった五年でまた国策の罠に嵌っていったのだ。お目出度い国民と言う他はない。「良薬口に苦し」とよく言ったが、この頃から薬を飲むのにオブラートに包むようになったのだ。〈経済〉や〈豊か〉というオブラートを。3・11の〈復興〉は遠のき、たった一年で原発再稼働の今は、〈絆〉や〈安全〉というオブラートに包まれて、薬餌効果はまるで麻痺している。
 昭和三十年は〈神武景気〉の始まりだった。神武以来の好景気という意味だ。目出度いね。原爆被災の痕跡と多くのケロイドの人たちが生きる広島で小学四年だった俺は、駅裏のメタンガスが吹き出るどぶ川の側で金屑拾いをやっていた。映画代と石坂洋次郎や勿論漫画、時々井上靖を借りる貸本屋代稼ぎだった。基町の太田川の土手に林立していた相生(あいおい)部落という原爆スラムには行かなかった。大人たちが“移るけぇのう”とデマを流していたからだ。家の側の尾長町公園に行くと必ず喧嘩を売られた。朝鮮部落のど真ん中にあったからだ。それで俺の遊び場の駅前には邦画五社の各封切り映画館と洋画の二番館が二館あったが、駅まで行く手前にあった寿劇場という邦画三番館がなじみだった。前の年の三月一日、ビキニ環礁でアメリカの水爆実験に被災した第五福竜丸事件があって、十一月、核から生まれた『ゴジラ』(監督 本多猪四郎)が封切られたが、ちょっと辛抱しておけば寿劇場に下りてきた。何てったって無茶苦茶な抱き合わせ三本立だったけど、そんなのはおかまいなしで、映画より映画館が好きだった。でも伊藤左千夫の「野菊の墓」を映画化した『野菊の如き君なりき』(55、監督 木下恵介)は、下りるのを待てなくて封切りで観たが、名作中の名作『浮雲』(55、監督 成瀬巳喜男)なんか、十歳の少年が知る由もなかった。菅原都々子のハイトーンでキンキラ歌う「月がとっても青いから」は、よそへ連れて行ってくれるから好きだったが、宮城まり子の歌う「ガード下の靴みがき」の暗い現実も好きだった。八月六日、第一回原水爆禁止世界大会が平和公園で開かれたが、既に英・仏は水爆計画を発表して製造に邁進していた。
 翌三十一年には、年明け早々に原子力委員会が発足して、茨城県東海村を強引に原子力発電所第一号に決めた。売春婦は組合を作り売春する権利を主張したが、売春防止法は成立して五月に公布した。そして、国策としての〈棄民政策〉は激しくなる。国が「もはや戦後ではない」と経済白書を発表した時、六歳になる水俣の女子が病院に担ぎ込まれた。猫が踊りながら海に飛び込み、カラスが海に舞い落ちる奇妙な光景を、漁民が不思議そうに見ていた矢先だった。医師にとっても治療の下しようのない奇病で、やがて、アセトアルデヒドを作る工程で生成する有機水銀が原因であると明らかになっても、チッソ株式会社と国は認めず工場排水を止めなかった。国策だったからだ。石牟礼道子のドキュメンタリー小説「苦海浄土 わが水俣病」や土本典昭監督の映画『水俣』(71)で白日に晒されたが、その間、昭和電工は阿賀野川に新潟水俣病の有機水銀を垂れ流し、三井金属鉱業は神通川にカドミウムを垂れ流し、次々と高度経済成長と取引して死の川死の海を生んだ。今も水俣病と原爆症の未認定患者は五万といて、死なない代わりに棄民されている。
 一方、昭和三十年代の東京を映画人は言う。「銀座の真ん中に都電が走り、路地を曲がれば子供の声が聞こえた。有楽町で逢いましょうが合い言葉。街を挟んで幾つもの川が流れ、渋谷には活気と哀愁の横町が、新宿には大劇場と映画館が並んでいた。失われた昭和の風景が映画にある」と。広島から上京した俺も知ってる三十年代の東京は、そうさ有楽町もあったし、影もあれば哀愁もあり、生と性の悦びに溢れていた。だが整形手術台に乗せられた東京はオリンピックを控えて大手術中だった。都電廃止に首都高速、モノレールに新幹線、手術の後には三島女郎衆より長い大化粧が待っていた。有機水銀やカドミウム、原爆や原発もない中央集権と地方は、このように淫靡な関係を昔から今日まで続けている。そんな東京下北沢に昭和五十年「レディ・ジェーン」を開いた。今その下北沢も開発という〈街の解体〉が進行中なのだ。
 去年の十一月、おおたか静流が「三月のうた」を、アン・サリーが「死んだ男の残したものは」を歌った他、沢知恵、おおはた雄一等七人の歌手がショーロクラブと共演した「武満徹ソングブック コンサート」の会場で、岩佐寿弥監督と会った。「『眠れ蜜』の撮影やったレディ・ジェーンの大木です」というと、「古川あんずの追悼式で会いましたね」と憶えていてくれた。古川あんずは大駱駝艦出身の舞踏家で、「ダンス・ラブマシーン」から「ダンス・バターTOKIO」を主宰して、ヨーロッパの大学にBUTOH学科を作るほど活躍していたが、二〇〇一年舌癌で亡くなった。岩佐寿弥のTV作品「プチト・アナコ─ロダンが愛した旅芸人花子─」はあんずの世界だった。俺とはあんず企画の舞台「二十一世紀のオデッセイ」(脚本 多和田葉子)を共同制作していた矢先の死だった。『眠れ蜜』(76)は「レディ・ジェーン」を開店して間もない頃、一番最初に入った撮影隊だった。ドキュメンタリーとフィクションの境界を越えて、根岸季衣、吉行和子、長谷川泰子の三世代の女優が〈自分〉という役を演じた。石橋蓮司が共演者でいて、脚本は佐々木幹郎、カメラは田村正毅(現たむらまさき)だった。凄いメンバーが店にやって来たものだ。続けて、岩佐監督を誘ったらしい、シモキタ村の旧友で映画の仕事をやっている赤松立太が、「今度岩佐さんがインドのダラムサラとネパールのポカラで撮影した映画を撮ったんだよ。チベットの九歳の少年のドキュメンタリー映画だけど、全編チベット語で、僕は日本語と英語字幕をやっている」と言った。
 二〇一二年六月三十日、その映画『オロ』が封切りになった。主人公の少年オロは、六歳の時、極貧の地チベットから亡命して、北インドの町ダラムサラのチベット亡命政府の救済センター“チベット子ども村”に住んで九歳になっていた。自分を送り出した母への慕情、郷愁、自分で切り開くしかない自分の道、涙と笑いの中でかっ達に生きる少年に、前衛畑を歩んできた老人監督が同一地平から寄り添っている。大友良英がサウンドトラックをやっている。泣ける。谷川俊太郎が「どんな大問題でも個人にとっては日常として現れる」と、オロの世界に喜びと希望を見いだしている。
 七十七歳の岩佐寿弥は敗戦の年十歳だった。曰く、「八月十五日の終戦でポキッと心が折れた」と言い、「去年の3・11で八月の再来を感じ、『国が壊れたな』って感覚」だったそうだ。そして「国が壊れてしまったチベットの少年に、八月の自分を投影したのかもしれない」と結んだ。カメラマン津村和比古と「いつか映画を撮ろうなと約束して、三十年が経って実現した」と聞けば、九歳の時第五福竜丸の死の灰ニュースを広島の映画館で観て以来、過剰反応をしてしまう俺にとっても、さぞかし人生の勇気が湧くことである。では、大飯原発は再稼働し、東京都民投票条例は却下され、戦後よりもいつの時代よりも箍がはずれた悪者の時代に、〈革命〉も無く〈テロル〉も無く、原爆〜原発〜開発=ヒロシマ〜フクシマ〜シモキタの時空間のくびきを殲滅させる手だては、一体何処に? 〈成長〉という魔が元凶なのは分かっているのだ。ではオロのままでいろということなのか。