Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












浪漫と現実、どっちが喰えるか月に訊く
[季刊・映画芸術437号より]

VOL.12
 下北沢の街を根底から揺るがす大規模な道路建設計画!がある。以前の稿と重複するが何回でも言う。〈シモキタの街の中心部に最大幅26メートルの新規道路「補助54号線」と、5400平方メートルの駅前広場(交通ロータリー)を含む「区画街路10号線」が計画されている。この計画は長い歴史が育んできた文化の街・下北沢の「解体」を意味する〉として立ち上げたイベントが五年目の五回目を迎えた。去る八月二十七日、二十八日の二日間、見直しを求める「シモキタ・ヴォイス2011」のイベントを行った。
 とは言えその内実に触れるなら、二〇〇六年に国と都と世田谷区によって54号線も10号線も事業認可を強行的に下されて、一旦は為す術を失った。同時に、物件が区画内にあろうが無かろうが、下北沢一帯の建ぺい率、容積率を改訂した「駅周辺地区地区計画」という代物に乗っかった大家に依って、「レディ・ジェーン」も本来なら一〇年二月一杯で追い出されていたはずだった。開発が様々な大家を生み様々な店子が様々な憂き目に遭い始めていた。このような実情の下、翌〇七年俺たち「下北沢商業者協議会」は、先達の市民組織の「セイブ・ザ・下北沢」と、百二十人の原告団を組織して国と都と世田谷区(正式には準被告)を被告人に法廷闘争を起こした「まもれシモキタ! 行政訴訟の会」を誘い、〈文化運動〉のための「シモキタ・ヴォイス」を立ち上げたのだった。今年は特に三・一一の後で、もう一つの大見出しは「唯一の被爆国でありながら、ヒロシマ・ナガサキの教訓は置き去りにされた。」だった。つまり、戦前の富国強兵〜原爆〜高度経済成長〜原発〜再開発を同じ出どことした。〈被爆・被曝からの再生、被災からの再生、乱開発からの再生、下北沢の再生〉―シモキタの死と再生を突きつけたかった。とは言え個人的には〈絶望〉から出発している訳だから、負けるためにやってるに近い。
 一九八四年の映画『人魚伝説』で、伊勢志摩の海に原発誘致した地元出身の衆議員が言う。「世間じゃ原発を原爆と一緒にして、やれ放射能がどうの、やれ危険がどうのと言って騒ぐ何も知らない愚か者がいる」と。今の世で、誰か同じ台詞を言える代議士がいるか! 最終、神の鬼女となった海女のみぎわ(白都真理)が銛を突きつけて言う。「うちん人殺した原発言うんは何処におるんや? 何人殺しても、次から次へと悪い奴が出て来て終わらへん」―紅蓮の炎に包まれた無間地獄に浪漫で死ねれば、憎しみをたぎらせて反原発を謳うなら、反開発を謳うなら、最も感情移入できる映画だ。監督の池田敏春が今年一月その志摩の海に入水自殺したことを思えば尚更に心がぼろ雑巾になる。
 文化を問えば政治経済も絡んで来るのが必定だ。シンポジウムも重要なプログラムになる。各界の連綿たる方々に登場戴いてきたが、敗北を抱きしめてスタートした訳だから、つまり負けるためのやり方は別にあるのに、それは何故かと自身に問えば、シモキタが持っている歴史的な文学や映画の磁場への執着と、喪失しようとする第二の故郷感情が、絶望や諦観にすがろうとして来た俺を上回っているとしか言えない。その上、実行委員長となれば、今日の市民運動において、感情的は駄目、激情煽情は更に駄目と決まっている。
 だが今夏の「シモキタ・ヴォイス」は、準備段階から皆の姿勢が例年と違っていた。ことの原因を言うなら簡単だった。反大型開発と脱原発を掲げた保坂展人が、四月二十四日の世田谷区長選挙に当選したからだ。石原ゼネコン都政にたらし込まれて、築地移転に賛成した都議会議員だった民主党の花輪ともふみは、自民党候補として世田谷区長選のお土産をもらったが、区自民連の怒りを買って二分、体たらくの民主連も二分したその隙間を狙ったギリギリの当選は、もはや政り事とは言えない茶番の結果だった。しかし運も力量、しかも保坂展人が最終的に立候補を決意したのは、「下北沢の声に押されたからだ」ということを知っていた。俺はすぐさま保坂区長にシンポジウムへの出席依頼の連絡を入れた。一人の世田谷区長が誕生したからと言って、お目出た顔になる訳は無いが、事業認可が下されている今日、事業主体の世田谷区を引っ張り出して会話を始めることが、「シモキタ・ヴォイス」の目的の一つでもあった。
 八月二十七日、劇作家で燐光群を主宰する坂手洋二が口火を切った。「〈演劇の街〉だなんておこがましい。世界に演劇の街は一杯あって、三、四万の小都市でもオペラハウスを個人で支える土壌と力量がある。下北沢は日本的で、情報や金の流通の価値観で成り立っているだけだ」と。隈研吾と著書「新ムラ論・TOKYO」で下北沢に言及したジャーナリストの清野由美は、「ムラと言えば原発ムラが有名になってしまったけれど、閉鎖的でしがらみに逃れられないムラではなくて、肯定的共同体としての、六本木や汐留みたいな大高層大開発で漂白された都市じゃないという意味の下北沢」と。俺が「〈音楽の街〉もそうだが、上っ面の今の下北沢の街のにぎわいを作ったのは、昔から来街者の累積が要因で、排他性は今も変わらない。自分たちが街を作った気でいる一部の長や老の意見だけ訊いて、住民に意見を聞いたとする行政に問題がある。二十世紀の開発に見捨てられたのは、来街者が路面店の街を更に雑居の街にしたから救われていた。今はヒロシマ、フクシマ、シモキタを繋げて観る必要がある」と言うと、もう一人の司会者浅輪剛博が「もはや開発する道路も無くなって、鉄道工事を道路事業にしたのが下北沢の連続立体交差事業だ」と。受けて社会学者の宮台真司が「旧住民だけが残ると必ずその街は衰退する。日本は市民が参加する自治に成った試しは無くて、お上に頼る仕組みだ。昔天皇教育が一日で民主教育に変わった。今、原発以前は流行を追っかけ、三・一一後は倫理の時代だ。原爆と再開発は非常に近い関係にある。再開発は開発の瞬間に動く金が大事で後は無関心。大量生産に大量消費が待っているだけ」と。後半に歌手のおおたか静流が登場。「ヌビア人の世界的ミュージシャンだったハムザ・エルディンの街はアスワン・ハイ・ダム(71年完成)に沈んだ。ヌビアはエジプトとスーダンに分断された」と言って、国を占領されているパレスチナ〜アイヌのコタンと三・一一後旅をして来た交流の中で「彼らにとっては歌舞音曲がアートではなくて生死を賭した戦いであることを学んだ」と。
 古くは『阿賀に生きる』(93佐藤真監督)もそうだが、『ディア・ピョンヤン』(05梁英姫監督)が特別賞を受賞した年の「山形国際ドキュメンタリー映画祭」で、グランプリ(ロバート&フランシス・フラハティ賞)を取った『水没の前に』(04李一凡(リイーファン)・●雨(イェン・ユィ)共同監督)という中国映画を思い出した。黄河の上流の日本でも有名な三峽ダムに何千という人の住居、何十という町が沈む。昔中国の歴史的詩人の李白や杜甫が詩作に親しんだ地が、国家という無形の力に脆くも殲滅されて行くのだ。
 政治や経済が滅びても人間は生きていけるが、文化が滅びると人間は生きていけない。おおたか静流と大熊ワタルと炭坑節を歌って終えた。
 翌二十八日、パネリストの大友良英が言った。「シモキタのことを考えることは日本中のことを考えることだ」と。俺は三時間のシンポジウムの最後、保坂展人にそのことが言いたくて、締めの言葉に続いて要望書を読み上げた。
 GDPは世界第三位でありながら、年間三万人を超える自殺大国で、幸福度は八十位らしい。人に依って幸福度は様々だが、シモキタがどうなれば幸福度が高まるのか、「シモキタ・ヴォイス」が五年目を迎えてやっと区長と理事長の参席が実現して、新たな第一歩を踏み出した記憶すべきシンポジウムになったと思います。パネリストの皆さん、傾聴戴いたお客の皆さん、お疲れ様でした。
 夏の風物詩に終わらないために。