Flaneur, Rhum & Pop Culture
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選ばれし者の不安と退屈 追悼・沖山秀子様
[季刊・映画芸術436号より]

VOL.11
 今年三月二十三日、写真家の荒木経惟の「ポラノグラフィー」という毎月十日間のポラロイド写真展を、九年以上もやっている写真ギャラリー「LA CAMERA」が、下北沢の外れにある。そこのオーナーの島本慶とある打ち合わせがあって「レディ・ジェーン」で会った時、彼から沖山秀子の訃報を聞いた。二日前の三月二十一日だったそうだが誰も知らなかった。新聞にも二十六日から二十七日になってやっと小さな記事が出た。「死因は不整脈による心不全。享年六十五歳」と簡単だった。
 個人的な再会のきっかけを話すことから彼女の追悼としたい。「本郷クラブ」という編集者で作るサークルがあって、長い間定期的に講演と上演や上映をセットにした文化的な催しをやっている。二〇〇五年十月一日は「戦後六〇年と私の映画人生」と題した森崎東監督の講演と『黒木太郎の愛と冒険』(77)の上映だった。そこに足を運んだ人に後日知ることになる、映画に詳しい文筆家でもあるコピーライターの浦野玲子がいて、森崎東に誘われて来た沖山秀子と遭遇するのだった。沖山秀子は森崎東の監督昇進第一作『喜劇 女は度胸』(69)に出演してからの付き合いだ。そこで運良くと言うか悪くと言うか、「ジパングニュース」という小冊子に連載していた俺の書いた九月一日号の記事を、偶然にも読んでいた浦野玲子は沖山秀子に紹介したのだった。それは遡る二十四年前のことだった。何故沖山秀子のことを書いたのかたまたまとしか言えない。その時書いた内容は大体以下のようなことだった。
 <一九八二年の一月「レディ・ジェーン」のライブは、交通事故による突然死がジャズ界に痛恨を与えた、テナー・サックスの国安良夫をフィーチャーした森山威男カルテットの次の週の出番は、何と沖山秀子だったのだ。今や世間の記憶にあるのだろうか? 沖山秀子という女優からジャズ歌手にまで手を染めて、まったく音信不通の異能の傑女がいたことを。共演バンドが当時国安良夫夫人の清水くるみこと国安くるみトリオで、八十一年の夏に出していたデビューアルバムのディレクター兼ピアニストは清水くるみと再婚した渋谷毅だった。不思議な因縁生起と言うべきだろう。
 沖山秀子は関西学院の女子大生時、今村昌平監督に見いだされ、新作『神々の深き欲望』(68)でいきなりヒロインに抜擢されデビューした。神話的な南方縄文の根源のような南大東島で、神事を司る一族の悲劇を描いた作品で、原始的な生と性を豊満な肉体をむき出しにして演じて、世間をアッといわせた女優だった。七一年の内田吐夢監督の遺作『真剣勝負』では、宮本武蔵(萬屋錦之介)と勝負する宍戸梅軒(三国連太郎)の夫と共に鎖がまで戦うのだが、子供を抱いている姿は、聖なるアマゾネスの女剣士のようで、大柄で強靭な肉体から発散するダイナミックなエロスは、他に類を見なかった。中上健次原作、柳町光男監督初の劇映画『十九歳の地図』(79)は青春映画の傑作だが、主人公の住込み新聞少年と相部屋の冴えない中年男の愛人役も強烈だった。愛人と行っても実はビッコの売れない娼婦で、そのバケモノ染みた姿は、主人公の少年ばかりか、映画の観客までも寄せ付けない迫力に満ちていた。八〇年の秋の日、新宿東映会館内の一館でのプレビューだった。俺は涙でボロボロになった顔を隠すように足早に出口に向かうと、監督と出演者全員が客に頭を下げて見送っていた。待ち伏せだ。一瞥した沖山秀子の顔は、<マグダラのマリヤ>のように見えて印象深かった。
 八一年になった或る日、沖山秀子本人から何処で知ったか電話があって、訊けば「レディ・ジェーン」のライブに出演させて欲しいとの用件だった。一瞬ひるんで躊躇したのを悟られなかったかとも思ったが、即座に「やりましょう」と答えた。何故躊躇したかと言うと、その怪演振りもさることながら、『真剣勝負』以降、歌手としてもデビューはしたが、自殺未遂事件を繰り返して世間を騒がし、恐喝事件を起こし、精神病院の入退院を繰り返した後の再復帰だったという事情があった。果たして当夜は、顔に見覚えのある中年客も多々混じった満場の中のマリアは、時にサラ・ボーンのようなスケール感を身体に漲らせて、憂いに満ちた深く野太い声で、「五木の子守唄」をヴァースにした「サマータイム」で、客を全員犯したのだった。打ち上げに席で「今度はいつ?」と、早くも第二弾の約束をしたのだった。>
 本郷クラブの浦野玲子から電話があり、「沖山さんが生きていたので吃驚した」と言いつつ、彼女がライブを又やりたがっていると俺に告げた。
 先述の『黒木太郎の愛と冒険』は、恐喝〜精神病院〜自殺未遂を繰り返した後、森崎監督から声が掛かった人生の転機となった映画で、沖山秀子はビッコになって世間に再び現れた。七七年十一月二〇日、MBS毎日放送が放映したテレルポ「再生・沖山秀子」は、大阪の北の映画館で『黒木太郎の愛と冒険』の初日の舞台に立った彼女の挨拶から始まった。森崎監督に対する信頼感に溢れた簡潔明瞭な挨拶が清々しかった。振り子幅が大きく独善的で人を振り回す沖山秀子が、ここでは普段と違った側面を見せている。精神科の主治医との長いカウンセリング。足の悪い(テメエの足もじゃないか)老母の手を引いて、母は四十五年ぶり、当人は生まれて初めて〈故郷〉の奄美・沖永良部島に行った。足を手術して、ジャズのステージに立つ決意をする場面もあった。直後の母校でのステージに久しぶりに緊張して上がり、「朝日の当たる家」の終盤になって、思わず込み上げるものがあって、声を詰まらせ涙を落とした。そして彼女は客に詫びた。このドキュメントを撮ったのは温井甚佑というディレクターだったと分かったが、何者なのか彼女の真情をここまで吐き出させる人だったのだ。沖山秀子の「愛しのニャンタン」という自伝小説がある。神戸の下町で、療養しつつ愛猫にした野良猫に救われる話だ。温井甚佑という人も「神戸新開地幸福荘界隈」を著しているらしい。まさかご近所付き合いの方だったのか。
 で、〇六年一月九日、キャプションに曰く。〈三世を渡った沖山秀子のカルマが放つ、生の身体のエロス、六根清浄の歌が聞こえる〉沖山秀子との再会ライブは、デビューアルバム通り、ピアノ渋谷毅、ギター中牟礼貞則の共演で始まった。「アイム・ア・フール・トゥ・ウォント・ユー」「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」「身も心も」皆狂おしい女の恋歌だ。彼女には時代に寄り添う了見など微塵も無い。彼女に手本はビリー・ホリディしかいない。本人の身体と空気を震わせる呼気と吸気で沖山節を唄えば、妖術家のように音を操りアドリブする二人のバッキングが攻め立てる。タイトル・チューンの「サマータイム」が、“おどまぁぼんぎりぼんぎり……”で始まり場は最高潮に。アンコールは別れの歌だ。“精神病院入退院七回 留置場経験三回 自殺未遂四回 不吉な黒鳥さんアンタとはもうオサラバして”と語りの入る「バイ・バイ・ブラックバード」で終えた。メンバーを替えて二年間に五、六回やって、〈今様巫女の現世に提示するイエロー・ブルースの日月神示〉を終えた。
 自殺未遂に成功して来た女は成功が嫌だったのだ。世の中に命を五体投地してきた女は、やっと自殺未遂に失敗した。小説「ゴッホの空」は筆名が福井早苗になっているが沖山秀子の作品だ。何故ペンネームにしたかは知らない。小説で〈私〉が言う。「神様、アナタはどこまで私を愚弄すれば気がすむのです。あんなに高いビルから飛び降りても死なせてくれず、ビッコになったこの身体ではもはやステージに立つことなど……」と。