Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












「美しい城」作りの大人の遊びは始まった
[季刊・映画芸術435号より]

VOL.10
 一九七二年、沖縄で立ち上げた「演劇軍団・変身」の三十七日間のテント芝居で東京に戻った後、上原にあった中央大学代々木寮で東京公演を数日やって『木乃伊(ルミイラ)伝』は総てを終えた。五月下旬だった。疲れと空虚感の中で代々木上原のアパートに居るのも嫌になって、代田二丁目の四畳半二間のアパートに引っ越した。下北沢駅前のバー「どーむ」までは十三、四分だが、働く場所ではなくなり飲みに行く場所になった。飲みに行くには金がいった。たまに声が掛かった雇われ舞台監督などでは金にならないので、大手印刷会社の下請け工場で輪転印刷機と二十四時間仕分けの戦いなんてこともやった。週一のバイトで一日で三日分働くが毎週三日間は指が戻らず鉛筆も箸も持てない程過酷だった。そんな時東京スポーツの芸能記事の仕事が舞い込んで来た。小遣いにはほぼ困らなくなったが記事ネタがなくて、やることもなくてほぼ毎日酒場巡りだった。二月の連合赤軍の浅間山荘での出来事がまだ生々しい最中、日本赤軍の奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人がイスラエルのテルアビブ空港で乱射事件を起こしたり、ベトナム戦争は訳の分からない泥沼に入っていた。俺は映画『女囚701号 さそり』(72、監督伊藤俊也)のスクリーンに翻った黒い日の丸に“共感の意”を表し、『恋の狩人 ラブ・ハンター』(72、監督山口清一郎)を既に摘発していた警察と映倫を苦々しく敵視していた。
 九月になった或る日、酒場巡りも観劇も映画も四六時中付き合っていた故椎谷建治が「折り入って相談がある。うちの劇団を指導して欲しい」と言って来た。椎谷建治は七一年に解散した「演劇集団・変身」から俺とは枝分かれして、同様に一部が新たに創った劇団「劇衆・椿」の俳優だった。「何言ってんだ、竹内さんがいるじゃないか」と俺は即座に言った。竹内さんとは「変身」の代表だった演出家で演劇学者の故竹内敏晴のことだった。それにそんな申し出を受けたら「演劇軍団・変身」に何とした言い訳が立つのかという立場があった。結局代田橋の稽古場に、身体トレーニングと自己流反劇理論教室用に立原正秋の小説「美しい城」(藤田敏八監督の映画『非行少年 若者の砦』[70]の原作)を持ち込んで、外様の立場で「劇衆・椿」と付き合い始めた。座長であり師だった竹内敏晴は竹内演劇教室も主宰していて、そこへも演出部補みたいな形で顔を出すようになったが、良い家の子らしい女生徒がわんさかといた。おまけに場所はその後八〇年代から九〇年代前半に掛けて時代を一世風靡したクラブ「レッドシューズ」になった西麻布交差点のそばの地下だった。
 上京して新宿っ子から下北ッ子になりつつあった頃だが、新宿と下北沢の町の類似点は多々あっても、嫌いで苦手な港区のその中心地である西麻布にすんなり入って行けたのは不思議な感覚だった。意識的に嫌いだと決めつけていただけで身体はすんなり受け入れていたのだ。六七年に入った青俳演劇研究所は南麻布だったし、八五年に出した「ロマーニッシェス・カフェ」は六本木との境界を走るテレビ朝日通りに面した西麻布だったくらいだ。その後十三年間も辺りの地図を頭に入れて遊び歩いていたのだから、今では我が身が信じられない。但し、当時はその辺りをゴロゴロ闊歩していた欧米人に迎合したことはないのは一貫している、と思っている。それにしても、まったくジャズが似合わない街ときてるのに、村上春樹的にジャズは聴くもんだと思っている輩ばっかりなのが笑ってしまうってことだ!
 七三年の年が明けた一月、深作欣二監督の実録ヤクザ映画『仁義なき戦い』が封切られた。広島出身の俺としては育った街と密着している話でもあり、反米の匂いもフィルムに嗅ぎ分けた。新年の「劇衆・椿」の会合で上演の構想を発表していた共同台本、共同演出の「非情の街角・夜をぶっとばせ」を三月七日に開演したが、その中の第五章「呼べよ嵐、吹けよ風」で、「落とし前には時効はいらねえ!」と登場人物に言わせたのは、『仁義なき戦い』ではなくて、当時の俺の愛読漫画だった真崎守の「はみ出し野郎の子守唄」や「はみ出し野郎の挽歌」からの影響だった。勿論疎外された自分と鏡の自分との落とし前だ。打ち上げを下北沢の酒場「ペーパームーン」でやって楽日を終えた。
 次いで八月には女人館にもさほど行かず、アパートに籠って「非常の街角・夜を狩り込め」を書き上げて、十一月一日幕を開けた。そして下北沢のバー「ぐ」で打ち上げをやって終えた。座長の竹内敏晴は稽古期間から姿を見せず、自然に俺が入れ替え座長になっていた。たった十一日間の上演だったが、津野海太郎編集の晶文社の演劇雑誌「同時代演劇」が結構持ち上げてくれた記憶があるくらいで、それくらいが精一杯の力量だったのだろうか。その年の小沼勝監督の映画『女教師 甘い生活』に俺たちの芝居が挿入された縁で、助監督だった相米慎二とは飲み仲間となって、根岸吉太郎、鴨田好史と広がって行った。
 年末になってコマーシャル界のトップの演出家の杉山登志が“ハッピーでないのにハッピーな世界など描けない。夢がないのに夢を売るなど出来ません”と言って自殺した。新宿には四畳半フォークの「神田川」が胡散臭く木枯らしの情景を垂れ流し、西口は高層ビルが乱立で再開発されようとしていた。今現在東北大地震の影響を受けた風評被害で、食料物資の買い占めが行われて被害地域内ばかりか地域外の店頭にも商品が無くなっている状態だが、似非夢を売る企業CMは自粛しても、代わりにCMを買い占めたACジャパンは暴力を売っているではないか。“「馬鹿」といったら、「俺は偉いんだ」という”バカと一緒だと、“みんなでやれば日本は強くなる”なら又戦争じゃないか、バカ! 当時はオイルショックの影響で、トイレットペーパーや洗剤、砂糖、灯油が買い占めで無くなった。物価も狂乱していた。原発も同様、人間は哀れにも繰り返しているだけなのだ。
 74年と年は改まっても同じく、ゼネラル石油の〈石油危機は千載一遇のチャンス〉なる内部文書が発覚して、便乗先取り値上げを狙ったあらゆる価値に金を優先させる悪どい商法が問われたりしたが、企業倫理は企業倫理で直らない。今は桜並木の遊歩道になっていて北沢川が暗渠になっているが、当時はむき出しの川だった。一番環七寄りの橋の前に「男おいどん」みたいな秀圭荘はあった。映画助監督の橋本匡弘、カメラマン志望の神谷一雄、森山大道好きの小川圭子らが住人だったが、たった4メートルほどの橋を「あしたのジョー」を気取って泪橋と名付けていた。その橋を渡るということは下北沢に住むことだった。今はそこを下北沢と人は言うかもしれないが、当時はとても言えなかった。そして年長の俺が一番先に渡って行った。渡ったは良いが稽古場の使用が難しくなり、劇場として使っていた旧「変身」の代々木小劇場がある事情で上演出来なくなってしまった。このことは決定的だった。稽古にも身が入らず次回上演の目標を失い、机の原稿用紙もほったらかしのままだった。
 週刊誌ヤングレディのリライトやPHP誌のインタビュー記事を書いて飲み代にしていた時間が随分経っていた。酒や麻雀で相米や根岸や鴨田にはしょっちゅうあっていた気がする。十一月が近づいてそれまでその日その日に逃げていた不安が一挙に襲って来た。劇団は上演しなければ意味がないがそれは金銭的に不可能だ。俺自身来年で三十歳になるという金と生活の恐怖だった。だがどう考えても就職はしたくないしまず無理だ。手に技術はない、何も潰しが効かない生き方をして来たが、ジャズと酒と映画と演劇ならキャリアは相当ある。それならジャズバーしかないだろう。聴く、飲む、観る、喋るの文化戦線だ、昔から不況のときはジャズが流行るという、急いてはことを仕損じるなどとは考えない、鉄は熱いうちに打てだ、とばかり当然場所は下北沢に決めて、物件探しと金集めに奔走した。三百何十万は工面したが、俺の自己資金は当時の平和総合銀行の通帳に残っていた五千円だけだったので、金が足りず内装は友人の舞台美術家を説得した。俺がレイアウトして大野泰が図面を引くというやり方だった。思いつきで始めたことで、劇団の維持と自らの生活の基盤作りが理由だったが、偉そうにコンセプトを三点立てた。
一:下北沢に一軒ゴールデン街をつくる。
一:下北沢の端を選んで防人になる。
一:椅子テーブル、スピーカーまでも手作りにして、独自性にこだわる。
 まだ名の無い「レディ・ジェーン」の大人の遊びは十二月八日に始まった。