Flaneur, Rhum & Pop Culture
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夢幻しの「セントジェームス病院」
[季刊・映画芸術431号より]

VOL.6
 こんな風に過ぎて行くのなら
 いつか 又 何処かで なにかに出逢うだろう
 あんたは去ってしまうし
 あの娘も あっさり結婚
 今夜程 淋しい夜はない
 きっと今夜は世界中が雨だろう

 今年の一月下旬、「浅川マキ『こんな風に過ぎて行くのなら』=浅川マキがサヨナラを云う日」という通知が届いて、三月四日、会場の新宿ピットインに向かった。一月十七日、名古屋のホテルで急性心不全で突然死した故浅川マキを見送る会に出席するためだった。慣れたドアを開けると、すっかり片付けられた店内は日頃と様相が違って、ステージには旨そうに煙草を吸っている当人の大写真と、その前面に、既に献花を済ませた見舞客の、多量の深紅のバラに埋まった祭壇が目に鮮やかに射し込んだ。昼から始まっていたセレモニーには、絶えず当人の歌が流れていて、丁度俺が入っていった時に流れていた曲は「セントジェームス病院」だった。故人への思い入れのなかでも特別な曲が流れていたので、その偶然性にあたふたしていると、「何かお別れの言葉でも…」と、メモ用紙と鉛筆を渡されて更に詰まった。そんなことがあったので、逆にゆっくりと祭壇に近づけた分、お別れが言えた気がしている。それ程剣呑な人だったということだ。会は時間が来ても、終わらないの終われないのという時、楽曲を提供している二人のピアニスト、渋谷毅が、ついで山下洋輔が追悼の曲を弾いて終わった。
 一九八〇年か八一年の年末、池袋の映画館・文芸座ル・ピリエで、恒例のライブを終えた浅川マキを、共演者だったドラムの森山威男が「レディ・ジェーン」に連れて来た時が初対面だった。緊張づらしていたのだろうが、たわいもない話に終始出来たのは森山威男のせいだったと思っている。七一年、当時所属していた演劇集団・変身の解散公演「屏風」(ジャン・ジュネ作)を、一年間の稽古の後、山下洋輔トリオ(サックス・中村誠一、ドラムス・森山威男)を抱き込んで、こともあろうに日比谷野外音楽堂で、三日間も狂挙した付き合いで仲良くなったジャズマンだ。ついでに言えば、随分経って岐阜の可児市に引っ越した彼のライブの本拠地は、隣の名古屋の「ジャズ・イン・ラブリー」という店だが、浅川マキの死はその店の三日間ライブ中の出来事だったのだから、何の縁と言うべきだろうか。もっとついでに言えば、「レディ・ジェーン」の三十周年祭に名古屋から来てくれて、代表スピーチを戴いたのが「ラブリー」の河合勝彦オーナーだったという繋がりもある。
 浅川マキが初来店した頃は、ピアノ・トリオにサックスとかノーマルなハードバップの当初のライブから、大きく修正して店独自のオリジナル・セットを展開していた。オリジナルと言ったって、演奏スペースが狭いので楽器を減らす、他所と同じプログラムをやらない、音楽上の理屈を超えて、例えば、ピアノとサックス、ギターとトランペット、ピアノとエレキピアノのセットをブッキングしていった。邦楽器の津軽三味線や尺八や箏も混じり始めて、当初は演りにくい、何を考えているんだと、ミュージシャンに不評を買っていたが、定着してくると逆に面白がられるようになっていった。森山威男も常時出演者だった。坂田明、渡辺香津美、加古隆、清水靖晃、梅津和時、高田みどり、それに橋本一子、高瀬アキ等が仕掛人だった。そんな流れに勢いが付いたと自画自賛していたある夜、俺はブッキングのアシスタントをしていた大場正明(現映画評論家)に、「近藤等則に出てもらいたいけど交渉してみなよ」と言って数日待っていると、快諾の返事が来た。アグレッシブで挑発的なプレイは店を超満員にした。何回か続けた。阿部薫、土取利行、高木元輝、ミルフォード・グレイヴスなどとフリー・ジャズの中軸にいることはレコード等で知っていたが、初めて近藤等則の生音を聞いたのは、浅川マキのライブだった。
 八五年に西麻布に作った「ロマーニッシェス カフェ」ではその変則&変態フォーマットを進化させて、近藤等則はライブの常連になっていた。九〇年の或る日、彼から電話があって、オランダからチェロのトリスタン・ホンジンガーが来るのでやりたいということだった。勿論即座にOKを出した。その後、と言ってもライブの前か後だったか忘れたが、浅川マキから店に電話があり、トリスタンはレコーディングで彼女が呼んだのだと知った。断りを入れずに出演させたことのお叱りかと思ったが、それでは近藤等則に済まないことになる。電話は、「レディ・ジェーン」で会った俺が西麻布で間接的に関わりのあることをやってるのを知って、懐かしんでと言うか、激励と言うか、報告だった。
「『セントジェームス病院』が沁みたよ」と言った俺に、近藤等則は「マキさんに届けたんだ」と答えた。トリスタンは元々彼の紹介だった。七六年、七枚目のアケタの店の収録ライブ・アルバム「灯ともし頃」で、近藤等則に「会うのはこの日が初めてである。わたしは彼のフリー・ジャズしか聴いてないのに、ひどくオーソドックスな『センチメンタル・ジャーニー』を吹いて欲しいと電話した」と浅川マキは言った。そして何度もレコーディングやライブを重ねて、フリー・ジャズの始め方ではなく終え方を教わった。彼が、八二年に初プロデュースした「CAT NAP」に次いで、八三年、後藤次利がプロデュースした「WHO'S KNOCKING ON MY DOOR」に紹介したのがトリスタンだった。電話の浅川マキは、十年経ってますよという俺に「覚えているわよ。それにニューイヤー・ジャズにも来てたでしょ」と来た。八三、四年の渋谷パンテオンですれ違っただけのことだ。改めて地獄の記憶に恐怖した。
 飛んで〇七年の春、俺は京都にいた。ライブを終えた夜中、三条木屋町のジャズバー「QUEST」を覗いた。三杯飲んだところで、マスターの丸岡寛が「一寸行きましょう」と言って行ったのが、祇園の「PIGNOSE」という店だった。紹介されるやその店のマスターの久場正憲は、事情を知っているらしく「今日マキさんからCDを送るからと、電話があったばかりだ」と言ったので、「ああ、『ダークネス』ですか」と訊くと、「それはとっくに持ってるよ。大木さんが作った『YUSAKU MUSIC NOTE』ですよ」と、いきなり不意打ちを食らった。京の街を歩いていると死霊に出くわす幻覚に襲われることがあるが、こんな奇妙な出会いが連続すると、そんな風に思ってしまうのだ。「QUEST」は近藤等則が学生の頃から通っていたと言うし、「PIGNOSE」は浅川マキが京都で毎年ライブをやる店だというのだから。「YUSAKU…」とは「レディ・ジェーン」で松田優作が聴いたレコードの記憶を店主の俺が呼び戻し選んで、エピソードとエッセイを添えるといった内容だ。浅川マキの「セントジェームス病院」を一曲に選んだことで、東京に戻ってからお礼の手紙のやり取りをした。彼女の手紙には、何と「セントジェームス病院」の映画化のイメージが湧いてきましたとあって吃驚したが、今となっては叶わない。
 六九年、強烈な磁場の町新宿に黒い異彩を放つ映画館ATG新宿文化の地下に出来たアンダーグラウンド・シアター蠍座のライブでデビューした浅川マキは、元々演劇的であり映画的であり、音楽的にはどのジャンルにも属さなかった。ジャンル好きの日本の中では孤高の黒いヒロインだった。初期の日活ロマンポルノの旗手だった加藤彰の『恋狂い』('71)が思い浮かぶ。色とりどりの毛玉が画面一杯に転がり落ちて、浅川マキの「夜が明けたら」が静かに流れて女の性が解放される。師中平康ばりの斬新且つ流麗な作品が徒花だった等とは言わせない。

 めぐる季節の 人の夜に
 忘れ残りの 風が吹き
 子守唄さえ ない夜に
 死にゆく春も ありまする(死春記/真崎守)