Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












谷根千・下北を結ぶ機密通底音
[季刊・映画芸術429号より]

VOL.4
 音楽や映画や舞踊、絵や小説にも文体があるように、それぞれの街には街の、田舎には田舎の空気感がある訳で、人はその質感を嗅ぎ取って好き嫌いを決める基本要素にしているようだ。親元に住むとか勤務主導でない限り、人は好きな周辺を転々とする癖がある。上京後最初に住んだのが何も分らずに東府中、次いで立川の米軍ハウス、経堂、学芸大学、中井、東長崎と引越して、豪徳寺に来てからは、参宮橋、代々木上原、世田谷代田と、下北沢を中軸にしてほぼ小田急線各駅停車で住んだ。その後は下北沢で三回引越して、四軒目の現在は代沢二丁目に二十八年住んでいる。神経質な程街に馴染めず転々とした者が、三十八年も下北沢に住み続けていることになる。情報を前もって得ていた訳ではない。一九六八年、学友に用があって訪ねた先で下北沢という駅を初めて知った。
 その下北沢のことだ。猫道のような路地だらけの迷い路だった。そんな一角に五四年開店のジャズ喫茶「マサコ」はあった。その後次第に常連になっていくのだが、そこに行くだけで、ジャズ界の先輩の日野皓正や西村昭五郎監督、小説家や写真家と顔を合わせた。青少年にとって恰好の風が吹いていたのだ。下北沢の南を東西に流れる北沢川は現在暗渠化しているが、玉川上水の分水として江戸の時代から農作を潤わせてきたが、大正十二年の関東大震災を機に、被災者が逃れ住むようになり人口は倍加した。昭和二年に小田急線が、昭和八年に井の頭線が開通して更に拍車をかけた。
 三年前、友人のデザイナーの東盛太郎は、代沢、代田、北沢というこの北沢川周辺に居を構え参集した近代日本文学の作家、詩人、歌人、俳人、画家の巨星群像を後世に伝えようと、「『北沢文学の小路』物語」の企画を著者のきむらけんと立ち上げて、三十六ページの本と精密な地図を作り上げた。巨星群像とは、萩原朔太郎や娘の萩原葉子、横光利一や石川淳、三好達治や中村汀女のことであり、馬込の尾崎士郎を捨てて、東郷青児と愛の巣を構えた宇野千代のことである。女が男に色を合わせて「色ざんげ」(昭和十年、中央公論社)なら、男の性愛文豪は「肉体の門」(昭和二十二年、風雪社)の田村泰次郎だ。清貧の内に人知れず死んだ大文豪の娘森茉莉の居場所は代田の喫茶店「邪宗門」だった。生活感の欠けた父と家出した母にかわる祖母の虐待を克明に描いた「蕁麻の家」(昭和五十一年、新潮社)は萩原葉子の痛恨だったが、土地との機縁は延々と続き、四年前に亡くなるまで隣の梅ヶ丘に住んでいた。梅ヶ丘といえば成瀬巳喜男監督の名画『驟雨』(昭和三十一年)の舞台で、駅舎など往時のままの姿が偲ばれる。代沢小学校に代用教員として赴任してきた二十歳の坂口安吾も忘れる訳にいかない。その他加藤楸邨、田中英光、大岡昇平、日野啓三と限りがないが、北沢一番乗りは昭和三年にやって来た横光利一で、その後、多士済々が続くようになったのだ。きむらけんは「馬込の文士村のようにムラがっていないで、自立しているのが北沢川文学の特質だ」と比較して威張っているが、的を射ているようだ。そして、東盛太郎が意図した伝承とは、勿論それら巨星群の伝承ではなく、巨星を生んだ或いは参集させた北沢川と代沢、代田、北沢が長い年月育んだ〈磁場〉を後世に保存したいという思いだ。それは軌を一にして、都市再開発を強行に決定した行政への反撥でもあった。見えない人や物を動かす〈場〉は、田圃の地味と同様、一端崩すとお陀仏だ。人為や金で修復できるものではない。そんな願いを込めて作り上げた二ヶ月後、彼は中国の昆明から帰国した翌朝の〇六年八月二十八日、突如蜘蛛膜下出血で倒れ、十八日後の九月十四日、帰らぬ人となった。
 ユートピアとはノートポスの変形でトマス・モアが作った造語だと以前にも言ったが、つまりトポス=場が無い所、有り得ない場所として理想郷のことを言った。そんな有り得ない空想の場ではなくて、〈場=トポス〉の現実に入って種を植えてみる。すると物語が生まれる。十一年、家族で手分けして飼い犬の散歩を続けている。一番よく行く処は北沢川だ。暗渠だが上をせせらぎが流れ、両岸の道は桜並木になっていて、〈場〉を感じる。だが行き帰りの道はよろしくない。路地は昔ながらで良いのだが、大手不動産屋の立て札が立った空き地やら空き家が日に日に目立ってきた。駅前はおろか北沢川文学の奥地にまでやってくる。東京脱出か!等と吠え面かいていた時だったか、撮影のたむらまさきが一人「レディ・ジェーン」にやってきて、「こんなの」と言って差し出したのが、当人がカメラをやっている『私は猫ストーカー』(監督鈴木卓爾)のチラシで、映画は浅生ハルミンの原作世界だった。
 千駄木の路地裏で、ごみ出しする男や皿を持った主婦、ダンボール箱を台車に載せて仕事を始める人など、その街の朝の匂いから映画は始まるが、手持ちカメラがひたすら追うのは、猫への異常接近をくり返すイラストレーターの卵のハルという女の子と、その子の目標の猫たちだ。バイト先の古本屋夫婦、同僚の真由子、つきまとう鈴木君や故郷の元彼と触れ合いながら過ぎゆく日々はあっても、ハルには谷根千の〈場〉と猫しかない。鈴木君にハルが猫に近づく法を伝授するシーンが良い。秘伝その一、猫を讃美する言葉を発しながら、猫より低い姿勢で近づくこと。秘伝その二、目を合わせて八倍もまばたきをしつつ、時々目線を逸らせて敵意のないことを分らせる。秘伝その三、人指し指をそおっと猫の鼻に近づける。溝が埋まって猫が額を足に擦りつけたら受け入れ完了。というハルの訓戒は生き方そのもので、リアリティを持って切なく迫ってくるし、谷中、根津、千駄木という谷根千の路地の〈場〉の必然性も浮上してくる。
 映画を観た数ヶ月後の九月中旬、谷根千の地域を思って谷中七福神詣でをした時のことを思い出していた。当「映画芸術」編集氏が、「まだ書くものが決まってないのだったら、これなんかどうでしょう」と、「sound, another story 谷根千の音のたたずまい」というCDを送ってきたからだった。映画『私は猫ストーカー』で音響設計という耳慣れない役割りをした菊池信之が、撮影中に録り溜めた音だけをプレスした別作品だったが、中身は怪しげだった。〇七年の一月四日、田端の福禄寿の東覚寺に始まって、日暮里の恵比寿の青雲寺と布袋尊の修性院、谷中の二寺、寿老人の長安寺と毘沙門天の天王寺、上野の大黒天の護国院、最後は不忍池弁天堂まで約七キロを二時間半で巡った。七福神の姿と名が印刷された木版和紙に、七寺の御朱印を捺し終えると霊験が伝わった、気がするのだ。
 菊池信之式音作りは、一切の効果音を使用せず、そこにある音を収録して、実験的に再構成するので自由度が高く、独特の質感を画面にもたらすが、「another story」は、台詞も絵も音楽も抜き取った路地の音のCDだ。発想だけで既に前衛的だ。早朝五時、無音の中やがてバイクのエンジン音、自転車のチェーンの音は新聞配達か牛乳配達か、少し遠くで猫の鳴き声、人の歩く靴音、早朝出勤だろうか? まだ闇が支配する夜の音に、生活の音が時折聞こえる。「無音の中」とは嘘で、夜の音は怖い程轟音を発し続けている。下水道の中でも大型室外機でもなく、空気中に振動している可聴領域低域の轟音だ。十時ともなれば更に暴力的な朝になる。車やバスや宣伝車にパトカー、建築現場の音も加わって、猫も人もあらかじめ行き場を失って、谷根千のカオスに放り込まれる。それ位でないと〈場=トポス〉は生まれようがないのだ。そして、昔混雑する地下鉄の中で、「調律された楽音の中へ騒音をもちこむことを思いついた」武満徹が、晩年「私たちの耳は聞こえているか」と言ったことを思い出した。「私たちの生きている世界には無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない」は、「音、沈黙と測りあえる程に」の有名な件りだ。
 ところで、下北沢は元々朔太郎の「猫町」であって、幻影を求めた吉増剛造は「猫町界隈」で「不思議な傷口の様な、地底に通ずる眼を、私はここに見た」と記している。下北の猫ストーカーのもりばやしみほは「三角橋の猫の歌」を歌っている。“ここに、いるよ。”と。