Flaneur, Rhum & Pop Culture
「LADY JANE」又は下北沢周辺から LADY JANE LOGO












若者の街をフィルターを掛けて眺めてみると
[季刊・映画芸術428号より]

VOL.3
 現在、下北沢駅と一駅新宿よりの東北沢駅、一駅先の世田谷代田駅間で、急ピッチで小田急の地下化複々線工事が進行中だ。それに連続した都市計画を決めた現国交省と計画責任者の東京都、実際に事業を行う世田谷区の三位一体が画策している道路計画と駅前広場計画は、沈黙して鳴りを潜めているかのようで動向を見せない。後に残る広大な跡地の利用計画に関しても「未だ何も決っていない」の一点張りで、住民側の如何なる申し出にも口を割らない。プランが出来ていないなどそんなバカな話はありえない。旧建設省と旧運輸省の道路特定財源(税金)を引っ張り出すための暗躍で決められた鉄道一体型都市計画=連続立体交差事業は、通称〈建運協定〉によって独断決定された。昭和四四年だから一九六九年のことだ。そして九二年実施に向けて動き始めたのだ。依ってその後の数年内に下北沢周辺の地主や借地権者に、行政側が秘密裡にその計画を通達したことが容易に推測された。
 それから約十年後の〇二年、「レディ・ジェーン」の大家が契約を更新しないと言ってきた。係争を選ばず避けてきたが、退去の時期がいよいよ一年後の来年二月末に迫った今年の正月の目覚めは大変よろしくなく悪夢だった。その精神的負担はさすがに重く、両肩に重くのし掛っていたが、大家はこちらの面談要望や事情説明の要求に答えることなく半年以上が経過した。当初は“年も年だし、数年先はどうなっているか分ったもんじゃねえ”などと思っていた。ところがここ数年、何十年に及ぶ客が口を揃えて言うには、「そりゃ、店は大木のものに違いないけど、下北で三十数年やっていて、もはやシモキタのもの、俺らや皆のものになっているはずだ。確っかり続行するために対抗しろ!」という意見となる。俺は下北沢商業者協議会なる、行政に計画の見直しを求める商業者(約四二〇軒)を組織してその代表を務めているが、個人的なことへの怠惰な態度を改心して、どうした手段をこうじたら良いか、戦術的には何がより効果的かなどと、立ち退き反対の気持を高めていった。そんな五月の末、突然代理の不動産屋から電話があって、「大家さんが色いろ考えた結果、解約日から向う五年間、契約を据え置くことにしました」と言ってきたのだ。寝耳に水の話だったが、電話を切った後、喜ばしい気分どころか、次第にムカムカと腹に据えかねる怒りが込み上げてきた。
 〇二年頃初めて世田谷区から開発の概略説明があって以後、家賃や特にテナント料が急騰していき、今では街の不動産屋の数は軽く十倍にはなっている。勿論その中には、土地を狙った大手の○○不動産という輩もいる。今じゃ特定の人には大変お得な、青山より西麻布より一部の渋谷より高い。ところが、下北沢という街は他所の街より、飲食店だろうが物販店だろうが、一五%〜二〇%OFFでなければ客が手を出さないという下北価格がある。そこで、足元を狙って即刻再開発した商業ビルや、更新料や家賃の高騰で更新が出来なくて出て行ったテナントの空室が借り手がつかなくて無残な歯抜け状態の光景を晒しているのだ。さすがに借り手も間尺の合わなさに気付いたのだ、等と対岸の火事然と眺めている場合ではない。“ざまあ見ろ”という感情が無い訳ではないが、この不自然さを何処かで急速に修正しないと、街のエネルギーも長い歴史で培われた磁場も、早晩失われて行くだろう。であるからして、俺の大家も店子のことをこれっぽっちも思った訳ではなく、前述の光景から経済判断を切り替えただけに違いないのだ。違うと言うのなら俺と会って話をするべきだ。
 人は皆俺に聞く。「店は再開発に入ってるの? 入ってないの?」と。俺は呆れて返答に窮する。行政が勝手に行う再開発というものは、道路予定に入っていたり区画街路に入ってれば当然、そうでなくても建ペイ率や容積率や高さ制限の規制緩和の他、地区開発も行われ街の景観を大きく変貌させると同時に、人間関係を刺刺しくさせ街は乾涸びてかさつく。潤いを感じた下北沢に最初にやってきたのが六六年、新宿と下北沢の遊ぶ比率が以後ゆるやかに変っていき、七二年頃になると再開発の進む新宿ではなく、一人が占有出来る空気体積が大きい下北沢派になっていた。
 七五年年頭「レディ・ジェーン」を開店。八〇年四月、芝居も出来る下北で初の劇場兼ライブ・ホール「スーパーマーケット」を石坂独と共同で開店。下北沢の文化発信基地の中枢となる。そして八八年四月九日、中央線中野駅南口で雑誌ぴあの於保義教と待ち合わせをしていた。中野にあったデパートの丸井本社の不動産部の部長に話を聞いてもらうためだった。俺は友人の建築家に起こしてもらった仮想のビル竣工図面を抱えていた。時はバブル真ッ最中だったが、戦時中に焼夷弾の被炎を受けなかった下北沢の街は、昔ながらの路地と家並をどうにか残していた。そんな商店街の一等地に、一八〇坪はあるが、当時大型店化構想を打ち出していた丸井にとって対象外物件となり閉店した。その後、数年間倉庫として眠っていたので俺が目を付けたのだった。「スーパーマーケット」は既に閉店していて、四館あった映画館の内、最後まで頑張っていた下北沢最後の映画の灯「オデオン座」も閉めて、下北沢から映画館が消えていた。図面は一七五名の映画館が二館と一館のパフォーマンス空間、事務所の他あとはテナント・ショップの地下一階六階建て、の構想だった。
 企画計画に三ヶ月、設計に五ヶ月、工事に九ヶ月と想定して一年半で竣工予定の構想だった。延べ床面積五〇〇坪の工費見積りは八億だった。五階や六階は斜線制限に倣った三階までの半分のフロアーという青空確保の設計だった。丸井とはチケット同士で付き合いのあったぴあの矢内廣の紹介ではあったが、いくら自画自賛したところで、絵に描いた餅は食えるところまではいかず雲散霧消してしまったが、今述懐しても逃がした魚は大きいと言っておこう。
 その年、今や下北沢の住人の吉本ばななが「キッチン」でデビューして、いきなりベストセラー作家になった。同時代の漫画や映画に影響されたその小説は、翌年森田芳光監督によって映画化され、モデル出身の川原亜矢子がデビューした。海外の映画の話題でいえば、何といっても英伊中合作のベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』(出演:ジョン・ローン)だった。清朝最後の皇帝で、日本国の傀儡政権満州国の溥儀の波瀾の生涯を描いたからには当然かも知れないが、映画的にはイタリア貴族出身のベルトリッチが東洋趣味で描いた視点には異論があった。それより第六〇回米国アカデミー賞のオリジナル作曲賞に「ラストエンペラー」が選ばれたことだ。坂本龍一がデヴィッド・バーン等と共に日本人初の受賞したのだから、社会的なニュースにまで拡大してしまうのも当然だった。
 翌八九年には映画館入場者数が一億四三五七万人とついに史上最低を記録した。ところが昔からあったテレビ放映に加え、CATV、BS、CS、ビデオとシェアーを拡げた映画ソフトの需要は一挙に拡大した。そして、「アメリカの魂を金で買った」とたたかれながらソニーがコロンビア映画を買収した事件は、商品を札束で叩いて買う金満日本のあからさまの姿を見せつけられたようで、後味の悪さが残った。映画は映画館ではなく、もっと簡易システムでペットボトルをすするように観れば良いと言っているようでもあった。東京を代表する人気の街下北沢は、あまる程の劇場とロック・ライブハウスはあるのに、映画館は一館も無いという偏向に満ちた歪んだ構造のまま、街は若者に媚び続け、マスコミ・ジャーナリズムは無分別に若者をけしかけるのである。八〇年代半ば丸井が閉まると、大人の服飾品が買える店は一軒も無くなった。個人の靴屋も無くなり大人の靴はリーガル・ショップのみだ。似たようなヤング・ブティックに似たような靴屋だらけ、似たようなチェーン居酒屋に似たような演劇だらけ、似たようなバンドや音楽。マイケル・ジャクソンだって死ぬさ。若者も三〇年経ちゃ若者か? 九八年一二月に出来た「シネマ下北沢」も今は無く、映画の灯は下北にいつ復活するのやら。