Flaneur, Rhum & Pop Culture
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『タンスと二人の男』を海から上げろ!
[季刊・映画芸術427号より]

VOL.2
 神奈川県相模原市に、鎌倉の臨済宗の総本山建長寺派の常福寺という禅寺がある。「レディ・ジェーン」の元調理人から紹介されて八年が過ぎた。そこでは毎年四月第一土曜日に〈メメント・モリ/死を想え〉というタイトルで、昼から各界の三人に講演をして戴き、夜は音楽ライブで締め括る長い一日の催しがある。ライブを入れ込んでもらおうと住職に近づいていったのだが、そればかりか講演者も選ぶ企画制作に加担するはめになった。それまで第一回は養老孟司やさかもと未明(漫画家)だったので人選には気を遣った。同じ禅宗でも曹洞宗は座禅に重きを置くが、臨済宗は問答を重んじる方で、社会とうまく手を合わせている人や予定調和の著名人はお断りという訳で、無名でも生死を分けて闘ってきた実績や経験のある人が講演者に相応しかった。それは夜の音楽ライブとて同じだ。斯くてこれまでに、白石かずこ(詩人)、原一男(映画監督)、山折哲雄(宗教学者)、黒田征太郎(イラストレーター)、長倉洋海(報道写真家)、土地邦彦(麻酔科医)など生死を問う先達がテーマに即して、本堂に集う老若男女を相手に信じられぬ程赤裸々に内部を晒け出して告白するのである。表現者はサックスの姜泰煥、ピアノの佐藤允彦、高橋悠治、打楽器の高田みどり、YAS−KAZ、舞踏の麿赤兒、田中泯などの顔ぶれである。何とも稀少で面白い催しなのだ。「継続は力なり」と人はよく言う。〈メメント・モリ〉もたった八年だが、今の世の中だと長い継続になるのか? ま、「レディ・ジェーン」は三十五年目なので、クルクル変る下北沢の店舗展開で繰り上げ老舗にさせられて、店も個人としてもよく取材を受けるはめになる。
 十年前、キネマ旬報の取材を受けた時、丁度個人史のエッセイを書き始めていた。「どうしても記憶が曖昧になって、歪曲したり粉飾したりしてしまうからね」と当時の編集人の植草信和に言われたことがある。確かにそうかも知れない。雑誌TVなどでも六〇、七〇年代に触れた際に公器でさえよくある話だ。数年前になるが、雑誌「東京人」で特集を組んだ〈新宿六八―七二〉などは、至る個所で事実とずれていた。寺山修司などエッセイに嘘の物語を加えて面白く読ませていた確信犯もいたが、かって妹尾河童が書いた「少年H」のような個人と歴史の事実関係を捏造したのは、胡散臭くて読むに耐えない。これがベストセラーになったりするところが、軟弱日本の摩訶不思議なところだ。だから二、三年前には「コンプライアンス、コンプライアンス(法令順守)」とテレビに出てきて、エセ〈良心〉にへばり付いた知的傍観者がわめいていた。今は「リテラシー、リテラシー(読み解く力)」と叫んでいる。表向きの標語っぽい英単語を乱発して新聞やテレビは、何処へ行こうとしているのだろうか。
 先日の三月某日、〈土方巽八十一歳誕生日会〉なる故人の誕生日をきりたんぽ鍋と日本酒で祝う会が、中野のプランBであった。率先の田中泯や木幡和枝から土方巽の固有史がエピソードを混じえて語られた後、車座になった四十人の客からひとりひとりわたしの土方巽を語ってもらおうということになった。〈雑談会〉となっていたはずが策略ではないか。それまで床に敷かれていた畳の筵が即ち針の筵になった。懐しい新左翼の闘争時代の“総括”を思い出した。俺の番がきて「〈野口体操〉の野口三千三に身体運動を習っていた演劇青年だったことから、土方巽と暗黒舞踏は意識していた」と言って、七〇年に新宿文化劇場で映画の終了後上演された、人間座の江田和雄が演出した野坂昭如原作の『骨餓身峠死人葛(ホネガミトウゲホトケカズラ)』の話を持ち出した。すると田中泯が「誰か今言った芝居を観た人?」と挙手を求めた。誰も居なかった。「えッ? 大木さんとたった二人か」と田中泯が言って、体験派の気持ちは一気にほぐれたのだった。そして土方巽初体験は、確か六八年の銀座ガスホールでやった石井満隆公演のゲスト出演だったはずだと思い出した。五体を殺した不具者のようであり胎児のようだった。発声でいえばアリアのベルカント唱法ではなく、浪花節やパンソリ、ホーメイのそれだった。ついでに言えば、後年フリー・インプロヴィゼーション、或いはフリー・ミュージックと言われる流れを作ったフリー・ジャズの、当時最先端を行っていたドラムスのミルフォード・グレイヴスとギターのデレク・ベイリーが共演した渋谷エピキュラスのステージで、モダンダンスから入って土方巽に急傾斜していき、一人で自己と向き合って「身体気象研究所」を立ち上げていた田中泯が、両者に割って入ったのは七八、九年だった。ひとつはっきり憶えているのは、ミルフォードは田中泯の踊りに再三再四視線を送り動きに呼応していたが、デレク・ベイリーは田中泯を眼中に入れず何もしなかった(つまりコラボレーションの何をもやった)ことが印象強く残っている。だが全体的なことになると、『骨餓身〜』も何もいい加減な記憶しか残っていないのだ。古い話は世間受けが良い。立派そうに見える。〈鉄砲の弾の下〉を潜ってきたかのように見える。
 先に述べた常福寺の「うちの寺は字を入れ換えて読むとフクジョウシになってしまう」等と口を滑らせてしまう破戒坊主の原和彦住職は言う。「私は花は好きですが、床の間には温室で育てられた花は飾れません。雨風に晒され虫に喰われ枝が曲がり、やっと咲いた花には力があり、大きな床の間に一輪挿しても場を作り上げます。多難な経験をしたもののみがみせる風格があります」と言って、人生の糧とならないバーチャルリアリティ(バーチャルリアリティ)を切って捨てる。〈メメント・モリ〉は皆さん経験に添って語るのだが、〇四年の柳田邦男の話は凄かった。二十五歳で自殺した精神病の息子が脳死状態に陥った。その息子を精神科に通い続けさせることで悩んでいた当人が、医者から〈内観〉を勧められた話だ。〈内観〉とは七、八十年前に奈良の吉本という坊さんが、〈内観〉という厳しい修行を現代人にも容易に受けられるようにと考案したらしい。半畳の衝立の中にこもり、九時に寝て朝五時に起きて食事をする。これをひたすら繰り返すのだ。そして自分の一番身近な人から順番に取り上げ、一、お世話になったこと。二、迷惑を掛けたこと。三、お返しをしたこと。以上三点を幼少期から思い出すという修行だ。五日目に突然目の前に曼荼羅が現れて、光り輝く周囲の仏たちに囲まれて中心にいる自分が見えてきたそうだ。そして四季が鮮明に移ろい、ご詠歌や経、レクイエムなど色々な臨終歌が聞こえてくると、何もかも細かくはっきりと浮んできたのだそうだ。真っ暗闇の中で曼荼羅を見た瞬間、生きていけそうな気がして時間の凄さを思ったという話だった。
 社会の中の人の営為をこうして思う時、突如ロマン・ポランスキーの演劇映画学校時代の短篇映画『タンスと二人の男』(58)が浮かぶ。海の中からタンスを抱えて上がってきた二人の男は、タンスによって繋がっているが、社会的にも人間的にも断絶していて孤独だ。強姦や殺人事件を体験しつつ、タンスの置き場所を探して彷徨うが、相手にされない二人の男は元の海の中へ消えてゆく。この不条理劇は、「神々はシジフォスに休みなく岩を山の頂上まで転がして運び上げる罰を与えるが、山の頂上の岩は転げ落ち、シジフォスは再び岩を頂上に運び上げる」という、アルベール・カミュの小説「シジフォスの神話」に繋がる。この絶望的な虚無の中の真理で言えば、人は二人の男かシジフォスなのかも知れない。だが、人それぞれが世の中の制度を形成する悪しき鎖を断ち切り、自己内部を革命していく時、二人の男やシジフォスからおさらば出来るのではあるまいか。つまり個を〈内観〉するということ。ずっと遠い過去までを。人はその昔自ら踏み込むのを止めて脇道をしたことなど、決っして少なくないはずだからだ。
 俳人の千葉皓史が言う。〈後ろを向け。後ろが新しい。俳句においてはもとより忘却されている〉と。言葉を入れ換えれば映画にでも何にでも通用するではないか。