Flaneur, Rhum & Pop Culture
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『いつかギラギラする日』にラスト・ダンスを
[季刊・映画芸術2008夏号より]


VOL.27

シネマアートン閉館 その中間報告
独自のプログラムで映画ファンから信頼を集めたミニシアターが、6月4日に突然の閉館。いったい何が起こったのか?

 先々月の五月三十日、「シネマアートン下北沢」で五週間に亘った〈ショ−ケンが好きだ! 萩原健一特集〉上映が終わった。普段の成績からすれば平均を上廻る上々の入りだった。ところが五月三十一日から四週間、次に控えていた「ふるえるほどの愛シネマ」とタイトルした旧作名画特集が上映不能に追い込まれ、次いでその直後、映画館を閉館するという結果に陥ってしまった。
 一九九八年の暮、美術の原田満生と金勝浩一、それに衣裳の宮本まさ江の映画バカが思いを募らせて、「映画の企画から製作・配給・興行までを行う」誇大妄想で立ち上げて現実化した「シネマ下北沢」を、五年経った〇四年の新年から引き継いで、「シネマアートン下北沢」を
オルガナイズした俺は、昨年の十月と十一月号の当拙文でその件に触れたが、その後も何かと企画運営に関わらせてもらった我が身としては、状況的に不明瞭な点が多々ある中にも、苦労をかけた映画館の閉館の憂き目を私見ながらに語っておかねばと思う。
 「シネマアートン下北沢」は支配人の岩本光弘、チーフの金子未歩、出礼の青木智恵と中原里奈、映写の竜嵜陽介と岡野野朝子の六名によって運営されてきた。五周年を目前に、先代を見倣い目標に掲げた企画・製作・配給・興行も、誇大妄想ならぬ現実の有様として行えるところまで来ていた。多くの負をこうむる小さな映画館は、小さいが故に小ささを際立たせる逆発想を巡らせた結果、個性豊かな、知略的なラインナップが形作られていき、その流れで製作者側と映画館の濃い繋がりが生まれていったのだ。ショーケン特集は、正直そんな流れにバイアスが掛かっていた時期をシンボライズするシリーズのはずだった。もっと正直に言えば、はずでありたかったということだった。
 誰も知らないスタッフはいなかった。企画を考え映画館を続行させる情熱が、同時に進行していた経営母体であるアートン出版社の業績が悪化していった流れと背中合わせにあったことを。今年に入って既に参画していた投資ファンドが、会社の各営業部門を分社化して業態を変えていったことは、現場の仕事を躊躇させたが、何より今後のプログラムを立ててよいのか決めてよいのかといった不安は根本的だった。
 五月二十八日、俺は高橋悠治、姜泰煥、大友良英、田中泯という映画にも関わり深い人と「ブレス・パッセージ」ツアーの真っ最中だった。アートンの郭充良が逮捕されたというニュースが耳に入った。驚いた。だが通販の薬事法違反などは、極めて微妙で解釈いかんによるだろう。いち早くウェブ・ダイスの記事が目に付いたが、「閉館の原因は五月二十八日に運営会社アートンの郭充良社長が胸が大きくなる錠剤を販売していたファイナルジャパンの実質的社長という事で薬事法違反で逮捕されたことによるようだ」(筆名浅井隆)は歪曲であり事実とずれている。ましてや「女性を不当にだました利益で今までシネマアートンが運営されていたのかと思うと…」に至っては、映画に奉仕してきた嵜のスタッフは救いようがないではないか。錠剤と逮捕と閉館に原因と結果があるとするなら、罠に嵌められたことになる。郭充良の罪は、責任を実行する話をすべき現場にその時居なかったことだ。そして事実は次のような経緯を辿った。
 五月三十日と三十一日、〈愛シネマ〉の配給会社数社がフィルムを引き上げに来た。逮捕ニュースを知ったからだが、実は投資ファンドが〈ショーケン特集〉のフィルム料の支払いを拒否した反興行的映画行為をしたことで、同じ配給会社がフィルム貸出しを急遽中止したのだ。そして六月四日、スタッフ会議を設けて自ら閉館を選択した。その夜、俺は宮本まさ江と大家の本多一夫氏に会い、「映画館は残すべきです。頼みます」と意志と要望を伝えた。レイトショーの『the hiding ―潜伏―』(監督/福居ショウジン)は六日まで続映し、七日から一週間告知済みの『OKACINEMA』は意地を見せて自主興行を張った。同じく告知済みの『四畳半革命』(監督/世志男)は十四、十五日と二日上映して、残りの期間はシネマボカンとトリウッドに代行して戴いた。十三日、スタッフによるスタッフのための『ざわざわ下北沢』(監督/市川準)上映をやって、奴らは無職渡世の人として消えていった。胸詰まる酷薄なラスト・ピクチャー・ショーではあった。
 能力を失った「シネマアートン」が一日も早く契約解除して、上映しない無名の映画館になることを願っている。そして、岩本光弘や宮本まさ江が帰って来て灯を点すことを万倍願っている。
(本稿は「音曲祝祭行」Vol.158/08年7月1日号掲載の記事に加筆修正したものです。)

掲載号での大木雄高のプロフィール
2003年「シネマ下北沢」の宮本まさ江氏より引き継ぎの相談依頼があり、かねてより知己だったアートン出版社の、郭充良に経営を委託。岩本光弘を支配人に送り込んで「シネマアートン下北沢」を立ち上げる。自らは外部より大久保賢一等に呼びかけ企画運営委員会を組織して以来、顧問として関わり今日に至った。


本稿は閉館半月余の時点で執筆されたもので、現在も映画館としての動向は流動的です。