Flaneur, Rhum & Pop Culture
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下北沢の「路地」から発信してみる
[季刊・映画芸術にて連載中]


VOL.26

 一年前の十月十八日、区長の諮問機関である有識者による世田谷区都市計画審議会は、会長の裏切りもあって下北沢の道路計画、地区計画に関して推進の採決をした。そして区の答申を受けた東京都は事業認可を決定した。法的には巧妙にすり抜けた行政が、圧倒的多数の住民や個人事業者に下した最大の権力行使だった。現在、最大環七幅の補助五四号線の建設や区画街路一〇号線という駅前バス・ロータリー計画が、手続き不充分のまま一方的に進められていて、行政は周辺の用地買収にまで手を出している。小田急電鉄は複々線の地下化工事を先に手を付けているが、これに国の道路建設、都市開発が絡んでいるからややこしい。お陰で小田急は地下化工事の全工費の七・五%負担で済むうまい策を弄して、広大な地上跡地も思うようにしようとしている。政官民一体の政策は、下北沢の街が長い年数をかけて育んだ文化を消失し、個々の日々の営為を収奪しようとする生々しい問題ではあるが、ここでは何よりも下北沢の一大変貌が予測できる、世の知ったかぶり評論家や商店会長や地権者が描く〈アメニティ〉というタワーマンションやショッピングモール化することを問題にする。路地を解体することを問題にする。

 今年八月十三日から三日間、「下北沢商業者協議会」と「劇場ザ・スズナリ」は、それらの背景が引き起こす問題を多角度に検証し、住民とマスコミへのアピールと文化的な主張を込めようと、「シモキタ・ヴォイス」というイベントを企画制作した。各界人を集めた六回のシンポジウムに、夜は音楽と映画と演劇だった。十四日の映画は、『路地へ 中上健次の残したフィルム』(00)上映(64分)に続いて、坂本龍一と共に映画音楽をやっている大友良英のソロ演奏、そして青山真治監督と主催者側の筆者のトークという構成にした。

 『路地へ』は、一九九八年、井土紀州監督の『百年の絶唱』の上映の際、中上健次が生前、故郷新宮の路地を撮っていた一六ミリ・フィルムを観た青山真治が、井土紀州を道案内人にして、中上の死後七年目の命日前後に車で訪ねたドキュメンタリー映画だった。当夜の演奏後のトークの出だしは斯様だった。

大木 (大友良英の)爆音の後で静か過ぎますが。(場内笑い)『路地へ』の企画書に監督自身が書いた一節。「中上はかつて『路地はどこにでもある。俺はどこにもいない』という謎の言葉を呟いた。今その意味を曲解すれば、世界の至る所に『路地』と同様の宇宙はあり、自分はその間を常に移動し続けている、と読むことができる。この『ある』ということと『移動』の交差こそ中上健次の基本的な運動姿勢かも知れない。現在われわれが作ろうとする映画とあまりに似てはいまいか。」監督の青山真治を呼びたいと思います。
青山 (登場する)
大木 中上が意味したその路地は、被差別部落における路地であり、今開発で問題とされている下北沢の路地とは違う訳ですが、中上が撮った一六ミリに引き入れられて被せていった『路地へ』は、すぐさま『EUREKA』(00)という作品に連鎖されていって、「中上健次がいなかったら、或いは九州で起こったバス大量殺人事件の記憶がなかったら、映画を撮ってなかったかも知れない」と語った青山監督の路地を、下北沢の路地と交差させて話を進めたいと思っています。
青山 まず、この映画は今日ここで上映されるべきではないと、本当は思っていたのです。路地は失われても映像が残っているので、それを観て安心して良かれと思われるのが嫌だなと思ったからです。八四年頃、「現代文学の方向」を活字化した本があって、そこで中上が「今書こうとしているテーマそのものが、目の前から消えていくというような小説家が今までいたか」と激昂していたことを、今年もあった熊野大学で喋ったけど、中上が演出した一六ミリはその時期と重なっていた。路地が失われ山が削られ、野原に白亜の建物が建てられて、中上の家族や親戚が工事に参加していく。やむにやまれず切迫して撮ったもので、哀愁郷愁ではない無念の記念碑で、無念を作っていくのが土建国家のあり方だ。『路地へ』を上映することはひとつの抵抗な訳で、抵抗じゃない上映はすべきでないと思っている。その姿勢で大木さんに諒承を得たし、こうやって出て来て喋ってもいます。

 こんな導入部から、彼は荷風の路地を熱く語り、街をつぶすことは自殺行為だと言い切り、観客の便利と自由についての質問にも、「小説や映画の主人公やカメラを、ジャスコ的空間に入れて捉えるという思考にはならない」と断定した――。

 九〇年七月二九日、中上健次は新井英一に同行して唐津の「リキハウス」に行った。「リキハウス」のオーナーの通称リキこと一力干城は、多くのミュージシャンを唐津に呼んでいたプロデューサーだった。だが三ヶ月前にガンで死んでリキはいなかった。店で行われた追悼ライブで、中上健次はリキと自分のこと、そしてどうしようもなくチンピラでクズで光り輝いていた六〇年代の新宿を語った。最後の方になって「リキが死んだと聞いて…自分の青春も終わった……」と嗚咽しつつ中上が「今日リキのために書いた詩です。聴いて下さい」と言って、同じく即興で曲をつけた新井英一が万感込めて歌うのだった。俺も唐津には十数回足を運んだ。古い陶芸家の友人を訪ねるのが主目的だった。「リキハウス」に最初に連れていってくれたのがその陶芸家の松尾友文だったが、今は彼もいない。九七年に定宿だった唐津シーサイドホテルのイベントを頼まれて、近藤等則グループVS黒田征太郎ライブ・ペインティングをやったのだが、その時の黒田征太郎の描いた三メートル×一・五メートルの巨大な絵は、今も「リキハウス」の壁面を飾っている。

 六四年、広島から上京した俺は新宿のジャズ喫茶と映画館をうろうろしていた。一浪後、大学に入ってもろくすっぽ行かず、新宿の路地を目的もなく徘徊していた。その基地が歌舞伎町にあった「ジャズ・ビレッジ」だった。六六年のはず、春先だった。中上健次は「ジャズ・ビレ」にやって来た。歌舞伎町のジャズ喫茶の中でも群を抜いてガラが悪かった場所へ、しかも高校の学生服だった。リキの追悼ライブのトークに依れば、もっと駅に近い、前日に行った「ディグ」に迷って、同じ種類の音が鳴っていたので入ったらしい。一番奥のテーブルに入ると、そこは客番長のリキとその一派が占拠している席だった。ジャズに初めて接した田舎者丸出しの中上健次にはちんぷんかんぷんだった。で、客定めをされるのだが、面白いと一日で仲間にされた。俺は客定めされるほど新米ではなかったし、別の芝居仲間の信也や新子がいた。リキの彼女になったペコは、人間座の栗田勇作「愛怒」の主役舞台を終えた後には、俺たちの仲間になっていた。時代はもの凄い速度で流れ、新宿は路地を失った。

 信也はペコと暫く暮らして徳島に帰り、ペコはゴールデン街に「唯尼庵」を出して二年前死んだ。新子は「クラクラ」を出したが今は真岡市でセラピストをやっている。そう、連合赤軍に銃砲店が襲撃された地! 中上の「破壊せよ、とアイラーは言った」に登場するヤスは、俺たちの劇団に入ってきて驚いたが行方不明だ。同じく、店のチーフだった安田は今も日赤通りでバーをやっている。カオルは下北沢で昔バーを出していたが今は知らない。

 「路地」が消えるということは人が消える。「地の果て 至上の時」の秋幸が『EUREKA』の秋彦となって、「日輪の翼」ならぬバスに乗って、もはや「移動」することで「路地」の蘇生に向かう。それは通底器と覚悟を持った難行の人としてだが。

 果たして、下北沢駅前ロータリーから出るバスは何処行きなのか? ジャスコというサブカル行きか、又は墓場行きか。俺たちはそんなのには乗らないと自決しようよ。