Flaneur, Rhum & Pop Culture
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大平の眠りを醒ます映画 たった二本で夜も眠れず
[季刊・映画芸術にて連載中]


VOL.25

 雑誌「百楽」八月号に上智大学名誉教授の渡部昇一のエッセイが載っていて、昔の言葉には深い歴史と意味が隠されているとして「ヒカリ=光」を取り上げていた。四方節〈元旦〉、紀元節〈建国記念日〉、天長節〈天皇誕生日〉、明治節〈文化の日〉の四大節を出して、天皇の誕生と光の恩恵の皇国史観を述べていた。安倍首相の〈美しい国〉が浮かぶ。それは勝手だが、その光を語るに当って、「広島の原爆体験者は原爆のことを“ピカドン”という」の書き出しには、広島出身ということを差し置いても見逃せなかった。「まず“ドン”というのは音を真似て作った擬音、オノマトピアと語源学ではいう。では“ピカ”は音象徴、サウンド・シンボリズムという。つまり、ピカッと光る感じが光で、ピカはヒカと……」といった具合で、「天皇のことは『日嗣の皇子』という」に至り、「天津日嗣の高御座千代万代に動きなき 基定めしそのかみを仰ぐ今日こそ楽しけれ」と紀元節の歌を歌うのだ。国粋学者の能天気に腹も立っていられないが、ピカと天皇に輝くヒカを同じくするとは許せない。

 六月三十日の夜、そのピカドンの広島からコンサートを終えて東京に戻ると、久間防衛相の「原爆はしょうがない」発言が、マスコミジャーナリズムで大騒ぎしていた。「あれで戦争は終ったんだ」とも言って、広島、長崎に原爆を投下したエノラゲイの機長だったチャールズ・スウィーニーが「原爆投下こそが戦争を終結させた」といって死んだ言と一致させた。又「北海道がソ連に占領されずに済んだ」発言には、対日参戦を準備していたソ連に参戦されては、戦後の極東戦略に障害が生じると恐れたアメリカが焦った行為だと言える。広島、長崎では緊急集会を開き激しい抗議と謝罪を求めた。結果参院選を控えた自民党は、三日間で久間大臣の辞任で幕引きをした。憲法で言えば「『戦争を知らない軍国少年』らが政治を牛耳り改憲を唱えている」と内橋克人が警告を発し、「改憲論者は世界市場化を進める米国の真意を見抜けない」と嘆く。ヒロシマ・ナガサキの原爆を理由付けしてグローバル化する米国の今日の核戦略にとって、北朝鮮による核実験は、日本に改憲と核論議を湧かす起因を作ったことで、歓迎すべき事件ではなかったのか!? すべてが米政府とCIAが仕組んだ国際謀略に見えてくる。

 帰り際、広島空港まで時間が余ったので、広島市街を見下ろす七、八十メートル程の高さの比治山に登った。比治山には頼山陽文徳院や広島文芸の碑、現代美術館などがあるが、世にもめずらしい長崎と広島にしか無いものがある。今は名を変えて厚生労働省管轄の「放射線影響研究所」となっているが、一九四七年、被爆者を距離や地形、性別や年齢に細分化してデータ分析する米国国防省の施設「ABCC〈原爆障害調査委員会〉」が出来た。治療一切されないでただモルモットとして、ジープに連行されて行った被爆者も、一番若くて今年六十一歳にはなっているはずだ。

 その朝ホテルの食事に広島菜が出た。手を付けようとしない同行させた娘に、「食べろ」と言うと「旨い」と答えた。被爆後百年は草木が生えないと言われた食料不足の地で、瀕死の治療を続ける被爆患者の補助食料として、山間部で高菜を改良して発育させたのが広島菜だった。娘が旨いと言ったので今や名物の広島菜を土産に買って帰ったが、是非口をこじ開けてでも、久間なにがしやら安倍首相やら国会の誰れ彼れに食わしてやりたい。と思っていると、何てことだ同じ六月三十日、黒田征太郎がNYでピアニストと、絵と音のライブ・パフォーマンスをやったという本人からのリポートがFAXで届いた。描いた絵は二m×三mが一枚、二m×一・五mが二枚のキャンバスだったというから、かなりの時間と熱度の高いライブだったことが判るが、「日本の久間という人のゲンバクの発言が描かせました」とあって、インプロヴァイズドの醍醐味を伝えた。

 人々の喜怒哀楽の感受性を地中深く埋めたままで、軍事も政治も教育も先の大戦下に戻るのかと、錯覚ならず明らかな動きを見せる戦後六十二年目の日本の夏に、二人の日系アメリカ人が日本人に向けて撮ったドキュメンタリー映画が二本公開される。一本は日系二世のリサ・モリモト監督の『TOKKO 特攻』だ。頻繁に繰り返されるイスラムの自縛テロが、旧日本軍の特攻神風といわれることへの疑問と、亡き叔父が戦時中に特攻隊員だったことを知ったNY生れのリサが、元特攻隊の四人の生存者のストーリーを追いながら、特攻隊に撃沈された米の駆逐艦ドレックスラーの五人の退役軍人たち、日本の親戚たち、日本通の著名な学者ジョン・ダワーたちを訪ね、無理解だった監督自身が特攻の一人一人の心情を解明することで、真実に近付いていくことと共に、観客も監督と共同歩調で物語に入っていけるのが良い。レイテ沖海戦で既に大西中将によって特攻が指令され、関大尉は「自分は国のためでなく、愛する妻を守るために死ぬ」と語ったり、藤井中尉の特攻志願に「自分がいてはお邪魔でしょう」と妻子が自死するという、神風を伝説化するエピソードもあるが、実際の証言者が六十余年を経て語る赤裸の言葉に、映画の力があるだろう。エンドロールで流れるバイオリンソロの「同期の桜」はなかなか泣かせて生存者の心の慰めになるだろうが、なしくずしの死者はどうしたって浮かばれない。

 もう一本は日系三世のスティーブン・オカザキ監督の『ヒロシマナガサキ』(07)だ。オカザキはかつて、八十九歳で死を待つ日々をロスのベッドで送る女性が、日系人ではなく白人だったことに驚き撮る決意をしたのが、『待ちわびる日々』(91)だった。四一年から日系人の夫と共に強制収容所の生活を送ったエステルの日記を元にしたこの映画は、九一年度米アカデミー賞のドキュメンタリー部門でオスカーに輝いた。エミルー・ハリスの歌う「オールド・ファッションド・ワルツ」は今でも耳に残っている。『ヒロシマナガサキ』は十四人の被爆者とエノラゲイ機の投下に関与した元米兵四人の証言を軸に、貴重な記録映像や資料を交えて「核兵器による大量殺戮」の現実味に警鐘を鳴らしている。証言者は当時皆九歳から十六、七歳の少年少女だった。証言者の中には、早くから悲惨を表現してきた「はだしのゲン」の中沢啓治もいるが、五百人以上の被爆者に取材しても、想像を絶する肉体的苦痛を引きずり生きてきた戦後のあり方と国の対応に、固く口を閉ざしてきたのが通常の感情だった。だがここにはその生命力が、この世に真実を語り残すことが人生だとばかり心開いている。沈着に自分の物語を語る姿は、政治的メッセージではなく個人の現実の物語ゆえ、迫力に満ちていて目をカッと見開いたまま引き込まれて微動だに出来ない。終盤カメラは広島の太田川の岸辺を捉えると、青天下、空も裂けよと近藤等則のエレクトリック・トランペットが鳴り響いて、ライブ・ペインティングの黒田征太郎が呼応してキャンバスに絵具を飛沫させた。曲は「ピカドン」だった。不用意だった分、個人的にまず嬉しかった。『ヒロシマナガサキ!』は今年八月六日、全米で放送が決着している。

 この二本の映画を観ると、非自立国日本という国の姿が見えてくる。大戦後、日本と同じ道を辿ったドイツはワイツゼッカーを生んだが、例えば沖縄は特攻も住民も最も多かった地、その沖縄返還交渉に際して、佐藤栄作はニクソンと核持ち込みの密約に署名していたことが発覚したり、沖縄の教科書検定では、「軍隊は沖縄市民に自殺を強要した」の個所を、文科省の教務官は改ざんを申し入れた。沖縄は今怒りに燃え嘆き悲しんでいる。日本の映画にしたって年間四百本以上の駄作本数を競っても、自国のテーマは他国の人の力に負う訳だ。情けなや、八月六日を何の日か知る若者は広島にしてにすぎない。