Flaneur, Rhum & Pop Culture
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風花で献盃・或る残日録
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.18

 台風14号が九州南の千キロ以上も先にあった九月四日、関東地方は局地的暴風豪雨に襲われた。排水溝から下水が逆流、東京の治水不安も露呈したが、「LADY JANE」もカウンターが二十センチも水溜りになった。その後も九月は15・16・17号と襲われて百日紅の朱が鮮やかだった。アメリカはカトリーナとリタに見舞われ、俺はもう踊りだしそうだったが、ニューヨークの9・11「セプテンバーコンサート」に共鳴した日本の歌手、文化人、学者による日本列島四十ヶ所の愛と平和の「セプテンバーコンサート」の有り様を、ニュースで見るにつけ呆け踊りを止めた。〈9・11〉を世間で嘆いて言う時、その二日前の二〇〇一年九月九日、相米慎二が伊勢原市の病院で亡くなったという衝撃的な事実を受け止め記憶せねばならないのだ。今年で五回忌が過ぎた。これは相米慎二への個的書簡だ。
 総ては一本の電話からだった。七三年九月いや十月初旬、「劇衆椿」という劇団で、作・演出作品の稽古をやっていた時、稽古場に一本の電話が入った。替ると日活の小沼勝監督だった。撮影予定の『女教師 甘い生活』(73)に、芝居の稽古風景を挿入したいという話だった。前作『昼下がりの情事 古都曼荼羅』(73)の打上げで、出演していた劇団の先輩坂本長利について行き、脚本の中島丈博と共に顔だけは合わせてあった監督だった。了解を告げると、次の日にやって来た監督に「有難う。後の進行はこいつと決めてくれ」と紹介されたのが、セカンドの相米慎二だった。『女教師 私生活』(73/監督田中登)に続いて主演の市川亜矢子は、前の劇団「変身」の後輩だったり縁が結びあっていた。以後打合せと称して、夜になればゴールデン街から二丁目へと繰り出した。その内チーフの鴨田好史が輪に入り、サードだったが社員助監督の根岸吉太郎も時々加わった。小沼組から金が出る訳じゃなし懐は侘しかった。恰好つけた相米はタクシーで女の家へ遠回りして都合つけた。二人共、映画演劇の為なら女を騙すを良しとしていた。俺はあの店この店付けをした。あちこちの店でドーナツ盤DJをやってたしね。それでも駄目な時は、新宿文化劇場裏の日活の溜まり場「鼎」に押し掛けて、プロデューサーの海野義幸の払いにした。勿論芝居側の俳優深水龍作や小宮守、特に故椎谷建治はよく混ざった。翌七四年になると、「ゴールデン・ゲート」に乱入した。百人は入る誰の酒誰のグラス誰の支払いがグチャグチャのアナーキーな空間で、そこのゴッド・ママだった佐々木お美ちゃんとは今でも付き合いがある。そこでも故三浦朗から田中登、曾根中生に長谷部安春、故藤田敏八が俳優と暴れ騒いでいた。相米が二度続けて眼鏡を新調したことがあった。訊くと「ちょっとやっちまってさ」と言うので、「違うだろ。ゴジに殴られたが、止めに入ってとばっちり受けたんだろ?」と言っても、やっちまったんだと言い張るのだった。
 そのゴジこと長谷川和彦がATGで一本目の『青春の殺人者』(76)を撮るため、日活を辞めたのをきっかけに、相米もチーフとして出ていった。このコンビで二本目『太陽を盗んだ男』(79)を続けたが、監督や現場とスタンスが違うようなことはよく聞いていた。しかしこの期間に、製作サイドとのパイプ、スタッフの獲得、俳優とのコネクションをちゃっかり押さえたのは間違いなかった。『太陽〜』の撮了後顔を出して、「裏も表も誰だってたいていは使えるようになったぜ」と、奴らしからぬ威力を見せて、俺に本書かないのかと言わんばかりに、馬面に人参をぶら下げた。俺は書ける自信もなかったし、"音楽の方に行く"と決め、「第一回下北音楽祭」を組織していた。
 以降数年間、監督になった相米と俺は只の客と主の関係が続いたが、それが多くの関係者を知ることになるのだった。そして八六年頃、店にやって来た相米が「オペラを歌える、いや歌えなくてもオペラ歌手の役の出来る美女はいないかな」と聞いてきた。『翔んだカップル』(80/脚本丸山昇一)で監督デビューして八作目の『光る女』(87/音楽三枝成彰)のことだった。後年、オペラ好きの相米は"シノポリガ"とか嘯きながら、チケット入手至難のバイロイト音楽祭に「又行くんだ」とか言って威張っていたし、九三年には「千の記憶の物語」のオペラ演出を、三枝成彰と組んで、錦織健とかに歌わせていたな。八六年には俺は、テレビ朝日通りに「ロマーニッシェス・カフェ」という姉妹店を出して、海外からジョン・ゾーン、フレッド・フリス、ビル・ラズウェル、デレク・ベイリー、アート・リンゼイ、バール・フィリップスetc.国内から山下洋輔、坂田明、近藤等則、加古隆、高田みどりetc.と、その種の音楽の梁山泊の如き顔が出揃っていてメッカになっていた。相米にも相談出来る位になったと思われたのだろう。『東京上空いらっしゃいませ』(90/音楽村田陽一)の時は、クランクインの相当前からトロンボニスト捜しをやっていて、以後次回作が決まると必ず顔を出して、音楽と音楽家捜しの相談が始まった。表にどんな思いを隠そうが、その熱意一つでも音楽を忽せにしない奴だと感じさせていたが、それが平気で「音楽っていつもあまり興味ないからね」と発言したりするから、「忘れたな」や「怠け者だから」の連発も含めて、〈韜晦の人〉の確信犯ということになるだろう。大久保賢一なんか「何故って訊き方をするなよな」と迫られたことを自ら語り、「そうだ、WHYじゃなくてHOWなのだ」と自分を戒めたりしていたよな。
 最後の作品になってしまった『風花』が封切られた二ヶ月後の〇一年三月下旬、「一週間程検査入院した」と、確か『風花』の撮影助手の今井孝博氏から聞いた。一瞬不安がよぎったが病名も判らず一ヶ月半が過ぎた五月十日。俺は韓国から書家であり国宝級打楽器奏者の故金大煥を招いてツアー中だった。当日は法政大学で、金大煥に挑む日本の達人たちというデュオ×六セットのマージナル・ステージだった。休憩時間、控え室にフッ飛んできた出演者の大友良英(『あ、春』(98)と『風花』の音楽監督)が、「相米さんが来てますよ!」と俺に言った。更に病気が悪化していることを大友も知っていたのだ。驚いたが座席に行くには二部迄時間が無かった。ステージ袖から本人を確認して終演を待った。が、挨拶を終えて入り口に駆けた時には相米の姿は無かった。そして六月入院、肺ガンだった。
 通夜の席だったか一周忌だったか忘れたが、『翔んだカップル』と『魚影の群れ』(83)以外の全作品に付いた衣裳小川久美子が言った。「一週間の検査入院したその足で、川奈の桜が観たいと言って一緒に行ったのよ」と。その言葉を聞いた時、相米の心情がスルリと解明できるような気がした。わが「ロマーニッシェス・カフェ」で毎月出していた冊子に、著名人に自由仮題を投稿戴いていて、相米は八九年五月号だった。すると花見紀行文だった。それも全国行脚だ。次回作に向かっていたのが、「壬生義士伝」だったが、死に際を潔くする血を血で洗う新選組異聞の話。主人公吉村貫一郎のドン臭さに対抗する卑しい剣の使い手斎藤一が物語の相手役だ。ところで相米に貸して三十年返してもらってない本があって、「新選組高台寺党」(市居博一著)は、近藤勇に叛旗を翻し謀略で惨殺された異能エリート伊東甲子太郎と御陵衛士たちの気高くも哀れな史実があった。近藤の命で高台寺党に潜入していた間者斎藤一の仕業だった。ほら、壬生義士伝と繋がる高台寺は桜の名所だ。そして又、〈碁に凝ると親の死に目に逢わぬ〉を実践する、狂拳の棋士藤沢秀行翁に吸い寄せられたのも、魁たらんと願いつつ、桜と死を分ち難く導く彼岸のイメージがある。「風花」とは山肌を吹く風に飛ばされる細雪のこと。桜の化身で最後を飾るなんて心底恐い話じゃないか。

  金亀子 擲つ闇の深さかな 虚子