Flaneur, Rhum & Pop Culture
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「Aトレイン」という名の電車に乗って、
「墓場」という名の駅で降りた
[季刊・映画芸術にて連載中]

VOL.13

 四月三日「シネマアートン下北沢」がリニューアル・オープンした。その幕開けを飾る始発列車は、内田吐夢監督の名作『たそがれ酒場』(55)をリメイクした作詞家荒木とよひさの企画・監督の『いつかA列車に乗って』(03)という作品だ。
 時代に置き忘れられようとしているかなり大きめのジャズ・クラブ「Aトレイン」の看板に灯りが点る。老客(津川雅彦)の梅田が今宵も現れた。このジャズ・クラブ内一装置、しかも開店から閉店までの一晩の物語が、グランドホテル形式で進む。そこには、毅然とした元検事、老舗の若旦那、別れ話に心病む不倫中年、ヒロインの娘に金の工面をしにきた母親、包丁を隠し持った別れた歌姫の亭主、チンピラや元銀行支店長のドラッグクイーンたちの客が集まり、老ピアニストや新米サックス奏者のライブに酔い痴れ、人間交差点を形成する。客名主として客同士をくっつけたり離したり、店側と話をつけたりする狂言回し役津川が、一パイセットの演劇的進行にあって、ドラマトゥルギー上、良く生かされている。“終着駅も間近い列車に乗り合わせた老いぼれと、Aトレインに今乗ろうとする若者”たち。Aトレインとは、デューク・エリントン楽団のオープニングテーマで有名な「A列車で行こう」のことで、ニューヨークのハーレムの高級住宅地シュガーヒルやコットンクラブに連れて行ってくれる電車のこと。そんなノスタルジィで甘いシーンの連続でも、皮膚感覚で伝わる温度を持った心ある映画。後は熱いジャズ演奏シーンが助けてくれるのだから、作り手側に愛のあるジャズ映画だということができる。
 ジャズ映画と言ったが、そもそも日本にはジャズ映画なるものは殆ど無いだろう。ジャズが流れるだけの映画はそう言わない。では背景がジャズの現場か、主役がミュージシャンか、少し思い出してみる。わが「LADY JANE」でクランクイン直前に出陣式ライブをやった『真夜中まで』(99/和田誠)は、ジャズ・トランペッターを主役に一夜の出来事を描いていて『いつかA列車に乗って』と状況が似ているが、こっちは、映画内現実時間が十時三十五分から〇時十五分までで、上映時間とシンクロしている仕掛けがあり、犯罪にからんだサスペンス仕立てになっているので随分違う。
 ジャズの揺籃期の戦前の上海を舞台にした二つの『上海バンスキング』(84/深作欣二・88/串田和美)があるが、租界といういわば守られた特殊空間内で歴史とずれてジャズ三昧やっていた連中の物語といえば、戦後日本の米軍基地内に特権的に出入りできて、米兵の客相手にジャズプレイの腕を磨いていた連中を主人公たちにした『この世の外へ クラブ進駐軍』(03/阪本順治)は、状況としてよく似ている。このあたりの時代に切り込むのは難しいよ。様々な媒体で検証されていて、観る側に時代の印象が既にあるから、強い個人的な感情、或いは個人的体験や憎悪がしかとなければ、説得力あるリアリティは確保できなくて、ただのお話に終りかねない。歴史にずれて生きるのは大いに結構でも、やがて歴史に正面向けさせられた時、そこを描いて陥没する訳だから。と書いて、日本人の顔が変ってきてしまったことが、リアリティを欠く一番の問題だと気づいたのだが。
 それならもっと時代を遡り、時は幕末、岡本喜八監督の『ジャズ大名』(86)はどうか? 想像の異人筒井康隆の短篇を奇人が作った。“日本にジャズが入ってきたのは幕末だった”という話で、難破した黒人たちを助けて城の地下牢に入れるが、ジャズの魅力で日夜乱チキジャムセッションが展開する。喜納昌吉もびっくり、すでに幕末に全ての武器を歌にの反戦思想があったとは。おちゃらけで喝破する喜八流映画術の極意だった。
 しかし、日活派の俺にとってジャズ映画といえば、蔵原惟繕監督の『狂熱の季節』(60)と『黒い太陽』(64)だ。二本とも河野典生の短篇「狂熱のデュエット」と「腐ったオリーブ」を原作にしていて、社会矛盾の中で虚無感に生きる若者が、黒人に憧れジャズビートに気持を託す。澄ましたインチキ女を犯しても虚しい。銀座や渋谷の交差点を俯瞰したロングショットに、マックス・ローチの雪崩のようなドラムが響き、アビー・リンカーンの悲痛なボイスがかぶさる。曲はアルバム「ブラック・サン」の中の「七十五セントのブルース」だ。詩は黒人運動を精神的にリードしたラングストン・ヒューズの有名な一篇だった。主人公の若者がたむろする店が、実際俺もたまに寄っていた渋谷の「デュエット」だった。白石かずこにアビーとマックスを紹介され、沢渡朔が写真家として最初の一枚をスタートさせたのは新宿の「キーヨ」だったか。二作品には同時代精神が横溢し、ジャズが汗をかいて矛先を社会に向けていた。主人公が別の店で、“ジャズはないのか”と注文して、“やってますよ”とアゴをしゃくったマスターに、“こんなのジャズじゃねえ”と強がり、犯した女に“白いコルトレーンみたいでイライラするんだよ!”と言い放つシーンで、俺は思い出した。十五歳で通い始めた広島のジャズ・バーのマスターに「ジェリー・マリガンお願いします」とリクエストしたら、「坊や、ジャズはロイクを聴かにゃいけんよ」と拒否された。ロバート・ワイズ監督の『私は死にたくない』(58)で冒頭いきなりジェリー・マリガン・セクステットが映し出されたが、ロイシでもロイクのビート出してたと思ったが、『狂熱の季節』のこの文脈は非常に判り易い時代精神だった。似た感触を持ったボリス・ヴィアンの原作でミッシェル・ガスト監督の『墓に唾をかけろ』(59)の悲哀と苛立ちを思い出した。
 欧米映画ならジャズ映画なるものは枚挙に暇ないが、史実上の個人というと途端に重くなる。『ラウンド・ミッドナイト』『バード』『レッツ・ゲット・ロスト』などもそうだが、邦画で思い浮かぶのが若松孝二監督の『エンドレス・ワルツ』(95)だ。阿部薫こと稀有の天才と持てはやされれば異論反論多々あるに決っている。同題の原作が出版された時から著者に非難はきていた。幾ら見事に纏め上げても極めてフィジカルに創るしかなく、観念を横すべりするととんでもない違った解釈になってしまう。
 故人は相当傲岸だった。だが「LADY JANE」では違ってた。「夢一文」の長尾達夫と三回来た。一回は鈴木いづみも一緒だった。大人しくジンロックを飲る。三杯目からエリック・ドルフィをリクエストした。決まってドルフィだった。ドルフィしかなかった。“一度出てしまった音は二度と聴けない”と死の一ヶ月前のアルバム「ラスト・デイト」(64)で言ったドルフィは、その一回性に五体投地する肉体を軋しませた。それがドルフィの音楽の肉体言語だったが、そのまま阿部薫の肉体言語でもあった。何故なら、彼は“僕の父はドルフィ、僕の母はビリー・ホリディ”とよく妄想虚言を嘯いていたというから。それから、八〇年に石坂独と下北沢にオープンしたイベント・ホール「スーパーマーケット」が或る日、夫人や小杉武久、吉沢元治や芥正彦らがステージに立った。長尾達夫が仕掛けた〈なしくずしの死〉の三回忌の音楽法要だったが、これも何かの縁だったのか。
 で、『エンドレス・ワルツ』が撮影に入って暫くたった或る日、広田玲央名と町田町蔵が「LADY JANE」にやって来た。玲央名は開口一番俺にこう言った。「こいつ卑怯なの、何とかしてよ!」二人は薫といづみのように俺には見えた。
 “すみません、Aトレインの乗り場は何処ですか?”