top
top top
絵:黒田征太郎 文:大木雄高
top











VOL.23
「フリー・ジャズ」に酔い過ぎるな!

ツィゴイネルワイゼン

 ドイツの一大商業都市デュッセルドルフの北西に、メールス市というベッドタウンのような田舎街がある。地図にも載っていないほどのドイツ極西の地だ。当時、町おこしでアピールするものは、何もなかった。そこで、ドイツのプロデューサーのブーカルト・ヘネンは、市当局と掛け合い、世界に例をみない前衛的なジャズ祭を組織した。
 この市主催の「メールス・ジャズ祭」は、既に二十七回を数え、毎年、世界各国のビッグネームが、“フリー・ジャズ”を演奏するため、選ばれてくる。一九七〇年代には、坂田明、森山威男の山下洋輔トリオが、観客の度胆を抜く演奏で、“カミカゼ・ジャズ”と異名された。以降、ジャズ評論家の福島輝人氏のプロデュースで、毎年、日本のミュージシャンが招聘されているが、今年は不破大輔がリーダーのフリー・ジャズ・オーケストラ「渋さ知らズ」だった。
 四日間で四万人前後の観客を動員するこの祭は、世界の大新聞にも取り上げられ、メールスは、それだけで世界の有名市になった。
 八八年五月十三日、僕がベルリンに着いた日、友人から「今日チャット・ベイカーが、アムスのホテルから転落死した」と聞かされた数日後、オランダのそのアムステルダムに極めて近いメールスに、初めて行った。
 デュッセルドルフから。乗降扉が手動式の鈍行ローカル線で、二時間足らず揺られたが、メールス駅に降りると、えらく鄙びていた。その年の会場は、広大な緑の丘に建てられた、雹対策の大サーカス・テントだった。
 当日のトリが、韓国の打楽器グループ「サムルノリ」と知って嬉しかったが、番組が押しに押して、終演したのは深夜だった。テント楽屋を覗くと、ステージは熱かったのに、日中のTシャツOKから、零下近い急低温に、皆震えていた。リーダーの金徳洙(キムドクス)が「えっ、来てたの!体温めようよ」とシーバス・リーガルを差し出してくれて、再開を祝った。翌日は、韓国の異能、姜泰煥(カンテーファン)に梅津和時、林栄一、それに今年も出演した片山広明を加えたサックスだけの「ファー・イースト・アンサンブル」も出演して、編成の妙もあり大いに受けた。楽日だったので、その夜はドイツ・ワインでドンチャン騒ぎだった。
 翌朝目覚めると、ひどい二日酔いだったが、パリ行きの飛行機に乗るべく、一駅降りては反吐を吐きつつ、デュッセルドルフに向かった。旅の恥のかき捨てだった。

「アサヒグラフ」1998年6月19日号掲載