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絵:黒田征太郎 文:大木雄高
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VOL.15
「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」の輝く日

ツィゴイネルワイゼン

 一九七五年、下北沢に僕が開いた「レディ・ジェーン」のキャッチコピーは“ブーズ&ジャズ”だった。“飲んだくれ”というスラングのブーズは、初日早々から実践したが、ジャズの方はてんで看板に偽りありというか、LPレコードが三十枚足らずだった。で、ローリング・ストーンズアル・クーパーから小林旭荒木一郎まで、手持ちアルバムを持ち込んでお茶を濁していた。
 開店して五日目だったか、新宿ゴールデン街の猛者連五人がお祝いに駆けつけてくれた。かかっていた音楽は、台詞入りの赤木圭一郎のアルバムだった。曲が映画のサントラ「海の情事に賭けろ」になったとき、リクエストした先客のアングラ俳優四人が「これちょっとダサイよな、飛ばそ」といった。すかさず、「何だと、この野郎!」と猛者連が反応した。何せ民族芸能で国歌・政治を論じるご意見番、竹中労教室の武闘派だ。日本歌謡論をめぐる役者達とのけんかは、またたく間に始まった。
 赤黒く染まった床を眺め、にわか店主の僕は、ビッグなお祝いに、胸がいっぱいだった。
 それから数年、気合を入れなおして酒を飲み、他ジャンルのレコードも平然とかけた。
 歌謡曲はなくなっていたが、ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスはあった。ジャズファンの多くは、ジャズ以外の音楽に耳をふさいでいたから、そういう客には安くみられていた店だった。で、硬直したジャズ理論を吐き捨てて帰っていった。
 六年経った八〇年ごろ、ジャズのLPがいつの間にか、三十枚から三千枚になっていた。キャッチコピーに物量として追いついたわけだが、そんなある日、「この店をモデルにした漫画が連載されているよ」と、常連客が教えてくれた。さっそく、少年マガジンだったか手に取ると、題は「下北沢フォービート・ソルジャー」で、店名は「レディ・エラ」になっていた。作者のたなか亜希夫さんとは面識がないが、「あっ、このマスター、俺の似顔絵じゃないか」といった具合だった。
 モデルとはいえ、“フォービート”も“ソルジャー”も、武闘派気取りで気恥ずかしいが、たなかさんへの挨拶代わりに「レディ・エラ」ことエラ・フィッツジェラルドのLPはよくかけた。殊に、キュートな声と誰も超えられない超絶スキャットの「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」は、夜毎店内を明るくした。
 収録LP「イン・ベルリン」は擦り切れて、現在持っているのは二枚目である。

 

「アサヒグラフ」1998年4月17日号掲載