12.「黒雨・金大煥記念
〜日韓文化芸術フェスティバル」に寄せて
齋藤 徹

 キムさんとの出会いはピットイン、カイブツさんがブッキングしてくれた。正直言えばあまり気乗りのするものではなかったが、終わってみれば生涯に何回有るかというような出来事となった。ベースと打楽器のみというあまり人が集まりそうにない組み合わせ(ヘーグムのカン・ウニルさんが飛び入りで参加した)。後で聞くとカイブツさんの考えで敢えてそうなったらしい。感謝しなければならない。もしフロント奏者がいたら、ああいう出会い方はできなかったろう。学生時代、文字と政治の季節だった私は韓国語を習ったり韓国を訪問したりしていたが、その反作用のように音楽の世界に入ったため、韓国の音楽家と演奏することには心の奥でうずき、痛むものがあった。また、当時の私にとって即興音楽が一段高くあり、メロディ・コード・リズムのある音楽は自分のやるものではないとさえ思っていたころだ。ビー玉を投げたり、電気イフェクトを多用して悦に入っていたりしていた。しかし現実は、その方向に進めば進むほど、効果だけを求めていくことになり、ココロと身体が乖離し、確実に不健康になっていった。自分はいったい何なんだ、と言う気持ちがふくらみ、自然に邦楽や雅楽の人たちとの交流を始めていた。

 当時のキムさんは「微音」と言って、非常に小さな音に関心を持っておられた。プクを通して空気の中から音を密やかに呼び込み、演奏し、終わると音をそっと返していく、その過程が衝撃だった、美しかった。とても自然で大きな世界だ。飛び入りのカン・ウニルさんもまたまた衝撃。同じ弦楽器奏者として胸をえぐられた。ただ音楽的に刺激を受けたというレベルを遙かに超えて、自分自身が全く把握できない、何がなんだかワカラナイ状態になってしまったのだ。以後数年間は韓国に浮かされ、とりつかれ、打ちのめされ、至福を味わい、囚人か操り人形のように生きた。あの情熱は今思い返しても不思議としか言いようがない。霊が見えると言う人に、「徹さんの肩には韓国のおじいさんがいて、複雑なリズムをやってくれといってるよ」と言われたのを何の抵抗もなく笑って納得できたほどだ。キムさんを呼んだ人の電話を探し当て電話はするは、文化振興基金に申し込み大きなコンサートをやってしまうは、何回も訪韓するは、何枚ものCDをつくるは、演劇をやるは、ともかく普段のレイジーな日頃からは想像も出来ない数年間だった。

 キムさんを単独でお呼びしたこともあり話もよくした。ありがちなことかもしれないが、外国人である私が韓国の伝統にドンドンはまり深く深く知ろうとするのに対し、キムさんはワールドワイドな広がりを持つ「フリージャズ」の方に関心が行く。いつしかベクトルが逆になってしまった。キムさんもそれに気がついていく。彼には日本の共演者がドンドン増えていく。一方私の勢いも止まるべくもない。シャーマンたちとの交流が本格化していく。二人の方向が大きく螺旋を描きいつかきっと良い形で再会できる日が来ると固く信じるようになっていった。きっかけがキムさんなのだから演奏を続けていれば必ずどこかであえるはずだ、私の守護霊はキムさんを通してやってきたのだから!?という確信があった。

 そんな時、「KOTO VORTEX」という当時最高の技術を持つ箏のカルテットから作曲の委嘱があった。私は迷わず韓国音楽にたいするお礼の曲を書こうと思った。キムさんのお陰でこの世界を知り、もう一人のキムさん(キム・ソクチュルさん、東海岸シャーマンのボス)にであい、めくるめく体験をさせてもらったお礼を書こうというわけだ。45分になるこの曲「ストーンアウト」は、カルテットで初演をしてもらった後、自分も入り、CDも作り、ダンスともやり、2000年2001年には、神奈川フィルハーモニーオーケストラとのコンチェルトにまで発展した。今年はサンフランシスコで再演もあった。VORTEXの後輩にあたる「箏衛門」が見事に再演をしてくれたことは特に印象深いことだった。こうやって若い世代に繋がっていくことで、キムさんとの出会いに始まった一つの流れがいろいろな支流を生み広がっていくことを願うし、キムさんもきっと喜んでくださると信じる。

 韓国の伝統リズムと人間の生死がテーマになっているこの曲を、箏衛門の若いメンバーと弾ききって精一杯追悼したいと思います。

(2004.9.1 ※11/22 齋藤徹 with「箏衛門」出演に際して)